》りで登るようだぜ」
「なに構わない」
「ありがたい仕合せだ。まるで御供《おとも》のようだね」
「うふん。時に昼は何を食うかな。やっぱり饂飩《うどん》にして置くか」と圭さんが、あすの昼飯《ひるめし》の相談をする。
「饂飩はよすよ。ここいらの饂飩はまるで杉箸《すぎばし》を食うようで腹が突張《つっぱ》ってたまらない」
「では蕎麦《そば》か」
「蕎麦も御免だ。僕は麺類《めんるい》じゃ、とても凌《しの》げない男だから」
「じゃ何を食うつもりだい」
「何でも御馳走《ごちそう》が食いたい」
「阿蘇《あそ》の山の中に御馳走があるはずがないよ。だからこの際、ともかくも饂飩で間に合せて置いて……」
「この際は少し変だぜ。この際た、どんな際なんだい」
「剛健な趣味を養成するための旅行だから……」
「そんな旅行なのかい。ちっとも知らなかったぜ。剛健はいいが饂飩は平《ひら》に不賛成だ。こう見えても僕は身分が好《い》いんだからね」
「だから柔弱《にゅうじゃく》でいけない。僕なぞは学資に窮した時、一日に白米二合で間に合せた事がある」
「痩《や》せたろう」と碌さんが気の毒な事を聞く。
「そんなに痩せもしなかったがただ虱《しらみ》が湧《わ》いたには困った。――君、虱が湧いた事があるかい」
「僕はないよ。身分が違わあ」
「まあ経験して見たまえ。そりゃ容易に猟《か》り尽せるもんじゃないぜ」
「煮え湯で洗濯《せんたく》したらよかろう」
「煮え湯? 煮え湯ならいいかも知れない。しかし洗濯するにしてもただでは出来ないからな」
「なあるほど、銭《ぜに》が一|文《もん》もないんだね」
「一文もないのさ」
「君どうした」
「仕方がないから、襯衣《シャツ》を敷居の上へ乗せて、手頃な丸い石を拾って来て、こつこつ叩《たた》いた。そうしたら虱《しらみ》が死なないうちに、襯衣が破れてしまった」
「おやおや」
「しかもそれを宿のかみさんが見つけて、僕に退去を命じた」
「さぞ困ったろうね」
「なあに困らんさ、そんな事で困っちゃ、今日まで生きていられるものか。これから追い追い華族や金持ちを豆腐屋にするんだからな。滅多《めった》に困っちゃ仕方がない」
「すると僕なんぞも、今に、とおふい、油揚《あぶらげ》、がんもどきと怒鳴《どな》って、あるかなくっちゃならないかね」
「華族でもない癖に」
「まだ華族にはならないが、金はだいぶあるよ」
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