も土を踏む面倒がなかった。雨の降る日には傘を差す臆劫《おっくう》を省く事が出来た。彼は自宅から縁側伝いで勤めに出た。そうして同じ縁側を歩いて宅《うち》へ帰った。
こういう関係が、小さい健三を少なからず大胆にした。彼は時々公けの場所へ顔を出して、みんなから相手にされた。彼は好い気になって、書記の硯箱《すずりばこ》の中にある朱墨《しゅずみ》を弄《いじ》ったり、小刀の鞘《さや》を払って見たり、他《ひと》に蒼蠅《うるさ》がられるような悪戯《いたずら》を続けざまにした。島田はまた出来る限りの専横をもって、この小暴君の態度を是認した。
島田は吝嗇《りんしょく》な男であった。妻《さい》の御常は島田よりもなお吝嗇であった。
「爪《つめ》に火を点《とも》すってえのは、あの事だね」
彼が実家に帰ってから後《のち》、こんな評が時々彼の耳に入《い》った。しかし当時の彼は、御常が長火鉢《ながひばち》の傍《そば》へ坐って、下女《げじょ》に味噌汁《おつけ》をよそって遣るのを何の気もなく眺めていた。
「それじゃ何ぼ何でも下女が可哀《かわい》そうだ」
彼の実家のものは苦笑した。
御常はまた飯櫃《おはち》や御菜《おかず》の這入《はい》っている戸棚に、いつでも錠を卸《お》ろした。たまに実家の父が訪ねて来ると、きっと蕎麦《そば》を取り寄せて食わせた。その時は彼女も健三も同じものを食った。その代り飯時が来ても決して何時ものように膳《ぜん》を出さなかった。それを当然のように思っていた健三は、実家へ引き取られてから、間食の上に三度の食事が重なるのを見て、大いに驚ろいた。
しかし健三に対する夫婦は金の点に掛けてむしろ不思議な位寛大であった。外へ出る時は黄八丈《きはちじょう》の羽織《はおり》を着せたり、縮緬《ちりめん》の着物を買うために、わざわざ越後屋《えちごや》まで引っ張って行ったりした。その越後屋の店へ腰を掛けて、柄を択《よ》り分けている間に、夕暮の時間が逼《せま》ったので、大勢の小僧が広い間口の雨戸を、両側から一度に締め出した時、彼は急に恐ろしくなって、大きな声を揚げて泣き出した事もあった。
彼の望む玩具《おもちゃ》は無論彼の自由になった。その中には写し絵の道具も交《まじ》っていた。彼はよく紙を継ぎ合わせた幕の上に、三番叟《さんばそう》の影を映して、烏帽子《えぼし》姿に鈴を振らせたり足を動かさせたりして喜こんだ。彼は新らしい独楽《こま》を買ってもらって、時代を着けるために、それを河岸際《かしぎわ》の泥溝《どぶ》の中に浸けた。ところがその泥溝は薪積場《まきつみば》の柵《さく》と柵との間から流れ出して河へ落ち込むので、彼は独楽の失くなるのが心配さに、日に何遍となく扱所の土間を抜けて行って、何遍となくそれを取り出して見た。そのたびに彼は石垣の間へ逃げ込む蟹《かに》の穴を棒で突ッついた。それから逃げ損なったものの甲を抑えて、いくつも生捕《いけど》りにして袂《たもと》へ入れた。……
要するに彼はこの吝嗇な島田夫婦に、よそから貰《もら》い受けた一人っ子として、異数の取扱いを受けていたのである。
四十一
しかし夫婦の心の奥には健三に対する一種の不安が常に潜んでいた。
彼らが長火鉢《ながひばち》の前で差向いに坐《すわ》り合う夜寒《よさむ》の宵などには、健三によくこんな質問を掛けた。
「御前の御父《おとっ》ッさんは誰だい」
健三は島田の方を向いて彼を指《ゆびさ》した。
「じゃ御前の御母《おっか》さんは」
健三はまた御常の顔を見て彼女を指さした。
これで自分たちの要求を一応満足させると、今度は同じような事を外の形で訊《き》いた。
「じゃ御前の本当の御父さんと御母さんは」
健三は厭々《いやいや》ながら同じ答を繰り返すより外に仕方がなかった。しかしそれが何故《なぜ》だか彼らを喜こばした。彼らは顔を見合せて笑った。
或時はこんな光景が殆《ほと》んど毎日のように三人の間に起った。或時は単にこれだけの問答では済まなかった。ことに御常は執濃《しつこ》かった。
「御前はどこで生れたの」
こう聞かれるたびに健三は、彼の記憶のうちに見える赤い門――高藪《たかやぶ》で蔽《おお》われた小さな赤い門の家《うち》を挙げて答えなければならなかった。御常は何時この質問を掛けても、健三が差支《さしつかえ》なく同じ返事の出来るように、彼を仕込んだのである。彼の返事は無論器械的であった。けれども彼女はそんな事には一向|頓着《とんじゃく》しなかった。
「健坊《けんぼう》、御前本当は誰の子なの、隠さずにそう御いい」
彼は苦しめられるような心持がした。時には苦しいより腹が立った。向うの聞きたがる返事を与えずに、わざと黙っていたくなった。
「御前誰が一番好きだい。御父ッさん? 御母さん?」
健三は彼女の意を迎えるために、向うの望むような返事をするのが厭で堪らなかった。 彼は無言のまま棒のように立ッていた。それをただ年歯《としは》の行かないためとのみ解釈した御常の観察は、むしろ簡単に過ぎた。彼は心のうちで彼女のこうした態度を忌み悪《にく》んだのである。
夫婦は全力を尽して健三を彼らの専有物にしようと力《つと》めた。また事実上健三は彼らの専有物に相違なかった。従って彼らから大事にされるのは、つまり彼らのために彼の自由を奪われるのと同じ結果に陥った。彼には既に身体《からだ》の束縛があった。しかしそれよりもなお恐ろしい心の束縛が、何も解らない彼の胸に、ぼんやりした不満足の影を投げた。
夫婦は何かに付けて彼らの恩恵を健三に意識させようとした。それで或時は「御父ッさんが」という声を大きくした。或時はまた「御母さんが」という言葉に力を入れた。御父ッさんと御母さんを離れたただの菓子を食ったり、ただの着物を着たりする事は、自然健三には禁じられていた。
自分たちの親切を、無理にも子供の胸に外部から叩《たた》き込もうとする彼らの努力は、かえって反対の結果をその子供の上に引き起した。健三は蒼蠅《うるさ》がった。
「なんでそんなに世話を焼くのだろう」
「御父ッさんが」とか「御母さんが」とかが出るたびに、健三は己《おの》れ独りの自由を欲しがった。自分の買ってもらう玩具《おもちゃ》を喜んだり、錦絵《にしきえ》を飽かず眺めたりする彼は、かえってそれらを買ってくれる人を嬉《うれ》しがらなくなった。少なくとも両《ふた》つのものを綺麗《きれい》に切り離して、純粋な楽みに耽《ふけ》りたかった。
夫婦は健三を可愛《かあい》がっていた。けれどもその愛情のうちには変な報酬が予期されていた。金の力で美くしい女を囲っている人が、その女の好きなものを、いうがままに買ってくれるのと同じように、彼らは自分たちの愛情そのものの発現を目的として行動する事が出来ずに、ただ健三の歓心を得《う》るために親切を見せなければならなかった。そうして彼らは自然のために彼らの不純を罰せられた。しかも自《みず》から知らなかった。
四十二
同時に健三の気質も損われた。順良な彼の天性は次第に表面から落ち込んで行った。そうしてその陥欠を補うものは強情の二字に外ならなかった。
彼の我儘《わがまま》には日増《ひまし》に募った。自分の好きなものが手に入《い》らないと、往来でも道端でも構わずに、すぐ其所《そこ》へ坐《すわ》り込んで動かなかった。ある時は小僧の脊中《せなか》から彼の髪の毛を力に任せて※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《むし》り取った。ある時は神社に放し飼の鳩《はと》をどうしても宅《うち》へ持って帰るのだと主張してやまなかった。養父母の寵《ちょう》を欲しいままに専有し得《う》る狭い世界の中《うち》に起きたり寐《ね》たりする事より外に何にも知らない彼には、凡《すべ》ての他人が、ただ自分の命令を聞くために生きているように見えた。彼はいえば通るとばかり考えるようになった。
やがて彼の横着はもう一歩深入りをした。
ある朝彼は親に起こされて、眠い眼を擦《こす》りながら縁側《えんがわ》へ出た。彼は毎朝寐起に其所から小便をする癖を有《も》っていた。ところがその日は何時もより眠かったので、彼は用を足しながらつい途中で寐てしまった。そうしてその後《あと》を知らなかった。
眼が覚めて見ると、彼は小便の上に転げ落ちていた。不幸にして彼の落ちた縁側は高かった。大通りから河岸《かし》の方へ滑り込んでいる地面の中途に当るので、普通の倍ほどあった。彼はその出来事のためにとうとう腰を抜かした。
驚ろいた養父母はすぐ彼を千住《せんじゅ》の名倉《なぐら》へ伴《つ》れて行って出来るだけの治療を加えた。しかし強く痛められた腰は容易に立たなかった。彼は醋《す》の臭のする黄色いどろどろしたものを毎日局部に塗って座敷に寐ていた。それが幾日《いくか》続いたか彼は知らなかった。
「まだ立てないかい。立って御覧」
御常は毎日のように催促した。しかし健三は動けなかった。動けるようになってもわざと動かなかった。彼は寐ながら御常のやきもきする顔を見てひそかに喜こんだ。
彼はしまいに立った。そうして平生《へいぜい》と何の異なる所なく其所いら中歩き廻った。すると御常の驚ろいて嬉《うれ》しがりようが、如何《いか》にも芝居じみた表情に充ちていたので、彼はいっそ立たずにもう少し寐ていればよかったという気になった。
彼の弱点が御常の弱点とまともに相摶《あいう》つ事も少なくはなかった。
御常は非常に嘘《うそ》を吐《つ》く事の巧《うま》い女であった。それからどんな場合でも、自分に利益があるとさえ見れば、すぐ涙を流す事の出来る重宝な女であった。健三をほんの小供だと思って気を許していた彼女は、その裏面をすっかり彼に曝露《ばくろ》して自《みず》から知らなかった。
或日一人の客と相対して坐っていた御常は、その席で話題に上《のぼ》った甲という女を、傍《はた》で聴いていても聴きづらいほど罵《ののし》った、ところがその客が帰ったあとで、甲がまた偶然彼女を訪ねて来た。すると御常は甲に向って、そらぞらしい御世辞を使い始めた。遂に、今誰さんとあなたの事を大変|賞《ほ》めていた所だというような不必要な嘘まで吐《つ》いた。健三は腹を立てた。
「あんな嘘を吐いてらあ」
彼は一徹な小供の正直をそのまま甲の前に披瀝《ひれき》した。甲の帰ったあとで御常は大変に怒《おこ》った。
「御前と一所にいると顔から火の出るような思をしなくっちゃならない」
健三は御常の顔から早く火が出れば好《い》い位に感じた。
彼の胸の底には彼女を忌み嫌う心が我知らず常にどこかに働らいていた。いくら御常から可愛《かあい》がられても、それに酬《むく》いるだけの情合《じょうあい》がこっちに出て来《き》得《え》ないような醜いものを、彼女は彼女の人格の中《うち》に蔵《かく》していたのである。そうしてその醜くいものを一番|能《よ》く知っていたのは、彼女の懐に温められて育った駄々《だだ》ッ子《こ》に外ならなかったのである。
四十三
その中《うち》変な現象が島田と御常との間に起った。
ある晩健三がふと眼を覚まして見ると、夫婦は彼の傍《そば》ではげしく罵《ののし》り合っていた。出来事は彼に取って突然であった。彼は泣き出した。
その翌晩も彼は同じ争いの声で熟睡を破られた。彼はまた泣いた。
こうした騒がしい夜が幾つとなく重なって行くに連れて、二人の罵る声は次第に高まって来た。しまいには双方とも手を出し始めた。打つ音、踏む音、叫ぶ音が、小さな彼の心を恐ろしがらせた。最初彼が泣き出すとやんだ二人の喧嘩《けんか》が、今では寐《ね》ようが覚めようが、彼に用捨なく進行するようになった。
幼稚な健三の頭では何のために、ついぞ見馴《みな》れないこの光景が、毎夜深更に起るのか、まるで解釈出来なかった。彼はただそれを嫌った。道徳も理非も持たない彼に、自然はただそれを嫌うように教えたのである。
やがて御常は健三に事実を話して聞かせ
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