》が悪くって、どんなに平易《やさ》しい字も、とうとう頭へ這入《はい》らずじまいに、五十の今日《こんにち》まで生きて来た女だと思うと、健三にはわが姉ながら気の毒でもありまたうら恥ずかしくもあった。
「それで姉さんの話ってえな、一体どんな話なんです。実は私《わたし》も今日は少し姉さんに話があって来たんだが」
「そうかいそれじゃ御前さんの方のから先へ聴くのが順だったね。何故《なぜ》早く話さなかったの」
「だって話せないんだもの」
「そんなに遠慮しないでもいいやね。姉弟《きょうだい》の間じゃないか、御前さん」
 姉は自分の多弁が相手の口を塞《ふさ》いでいるのだという明白な事実には毫《ごう》も気が付いていなかった。
「まあ姉さんの方から先へ片付けましょう。何ですか、あなたの話っていうのは」
「実は健ちゃんにはまことに気の毒で、いい悪いんだけれども、あたしも段々年を取って身体は弱くなるし、それに良人《うち》があの通りの男で、自分一人さえ好けりゃ女房なんかどうなったって、己《おれ》の知った事じゃないって顔をしているんだから。――尤《もっと》も月々の取高《とりだか》が少ない上に、交際《つきあい》もある
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