。それからもしや自分の解釈が間違っていはしまいかという不安にも制せられた。
 彼は其所《そこ》に立ったまま、しばらく細君の寐顔を見詰めていた。肱《ひじ》の上に載せられたその横顔はむしろ蒼白《あおしろ》かった。彼は黙って立っていた。御住《おすみ》という名前さえ呼ばなかった。
 彼はふと眼を転じて、あらわな白い腕《かいな》の傍に放り出された一束《ひとたば》の書物《かきもの》に気を付けた。それは普通の手紙の重なり合ったものでもなければ、また新らしい印刷物を一纏《ひとまとめ》に括《くく》ったものとも見えなかった。惣体《そうたい》が茶色がかって既に多少の時代を帯びている上に、古風なかんじん撚《より》で丁寧な結び目がしてあった。その書ものの一端は、殆《ほと》んど細君の頭の下に敷かれていると思われる位、彼女の黒い髪で、健三の目を遮ぎっていた。
 彼はわざわざそれを引き出して見る気にもならずに、また眼を蒼白《あおじろ》い細君の額《ひたい》の上に注いだ。彼女の頬《ほお》は滑り落ちるようにこけていた。
「まあ御痩《おや》せなすった事」
 久しぶりに彼女を訪問した親族のある女は、近頃の彼女の顔を見て驚ろいたように、こんな評を加えた事があった。その時健三は何故《なぜ》だかこの細君を痩せさせた凡《すべ》ての源因が自分一人にあるような心持がした。
 彼は書斎に入った。
 三十分も経ったと思う頃、門口《かどぐち》を開ける音がして、二人の子供が外から帰って来た。坐《すわ》っている健三の耳には、彼らと子守との問答が手に取るように聞こえた。子供はやがて馳《か》け込むように奥へ入った。其所ではまた細君が蒼蠅《うるさ》いといって、彼らを叱《しか》る声がした。
 それからしばらくして細君は先刻《さっき》自分の枕元にあった一束の書ものを手に持ったまま、健三の前にあらわれた。
「先ほど御留守に御兄《おあにい》さんがいらっしゃいましてね」
 健三は万年筆の手を止めて、細君の顔を見た。
「もう帰ったのかい」
「ええ。今ちょっと散歩に出掛ましたから、もうじき帰りましょうって御止めしたんですけれども、時間がないからって御上《おあが》りになりませんでした」
「そうか」
「何でも谷中《やなか》に御友達とかの御葬式があるんですって。それで急いで行かないと間に合わないから、上っていられないんだと仰《おっし》ゃいました。しかし帰りに暇があったら、もしかすると寄るかも知れないから、帰ったら待ってるようにいってくれって、いい置いていらっしゃいました」
「何の用なのかね」
「やっぱりあの人の事なんだそうです」
 兄は島田の事で来たのであった。

     三十一

 細君は手に持った書付《かきつけ》の束を健三の前に出した。
「これを貴夫《あなた》に上げてくれと仰《おっ》しゃいました」
 健三は怪訝《けげん》な顔をしてそれを受取った。
「何だい」
「みんなあの人に関係した書類なんだそうです。健三に見せたら参考になるだろうと思って、用箪笥《ようだんす》の抽匣《ひきだし》の中にしまって置いたのを、今日《きょう》出して持って来たって仰《おっし》ゃいました」
「そんな書類があったのかしら」
 彼は細君から受取った一括《ひとくく》りの書付を手に載せたまま、ぼんやり時代の付いた紙の色を眺めた。それから何も意味なしに、裏表を引繰返して見た。書類は厚さにしてほぼ二|寸《すん》もあったが、風の通らない湿気《しっけ》た所に長い間放り込んであったせいか、虫に食われた一筋の痕《あと》が偶然健三の眼を懐古的にした。彼はその不規則な筋を指の先でざらざら撫《な》でて見た。けれども今更|鄭寧《ていねい》に絡《から》げたかんじん撚《より》の結び目を解《ほど》いて、一々中を検《あら》ためる気も起らなかった。
「開けて見たって何が出て来るものか」
 彼の心はこの一句でよく代表されていた。
「御父さまが後々《のちのち》のためにちゃんと一纏《ひとまと》めにして取って御置《おおき》になったんですって」
「そうか」
 健三は自分の父の分別と理解力に対して大した尊敬を払っていなかった。
「おやじの事だからきっと何でもかんでも取って置いたんだろう」
「しかしそれもみんな貴夫に対する御親切からなんでしょう。あんな奴だから己《おれ》のいなくなった後《のち》に、どんな事をいって来ないとも限らない、その時にはこれが役に立つって、わざわざ一纏めにして、御兄《おあにい》さんに御渡になったんだそうですよ」
「そうかね、己は知らない」
 健三の父は中気で死んだ。その父のまだ達者でいるずっと前から、彼はもう東京にいなかった。彼は親の死目《しにめ》にさえ会わなかった。こんな書付が自分の眼に触れないで、長い間兄の手元に保管されていたのも、別段の不思議ではなかった。
 
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