人となった彼は、その後自然の力でこの世界から独り脱け出してしまった。そうして脱け出したまま永く東京の地を踏まなかった。彼は今再びその中へ後戻りをして、久しぶりに過去の臭《におい》を嗅《か》いだ。それは彼に取って、三分の一の懐かしさと、三分の二の厭《いや》らしさとを齎《もたら》す混合物であった。
彼はまたその世界とはまるで関係のない方角を眺めた。すると其所《そこ》には時々彼の前を横切る若い血と輝いた眼を有《も》った青年がいた。彼はその人々の笑いに耳を傾むけた。未来の希望を打ち出す鐘のように朗かなその響が、健三の暗い心を躍《おど》らした。
或日彼はその青年の一人に誘われて、池《いけ》の端《はた》を散歩した帰りに、広小路《ひろこうじ》から切通《きりどお》しへ抜ける道を曲った。彼らが新らしく建てられた見番《けんばん》の前へ来た時、健三はふと思い出したように青年の顔を見た。
彼の頭の中には自分とまるで縁故のない或女の事が閃《ひらめ》いた。その女は昔し芸者をしていた頃人を殺した罪で、二十年|余《あまり》も牢屋《ろうや》の中で暗い月日を送った後《あと》、漸《やっ》と世の中へ顔を出す事が出来るようになったのである。
「さぞ辛《つら》いだろう」
容色《きりょう》を生命とする女の身になったら、殆《ほと》んど堪えられない淋《さび》しみが其所《そこ》にあるに違ないと健三は考えた。しかしいくらでも春が永く自分の前に続いているとしか思わない伴《つれ》の青年には、彼の言葉が何ほどの効果にもならなかった。この青年はまだ二十三、四であった。彼は始めて自分と青年との距離を悟って驚ろいた。
「そういう自分もやっぱりこの芸者と同じ事なのだ」
彼は腹の中で自分と自分にこういい渡した。若い時から白髪の生えたがる性質《たち》の彼の頭には、気のせいか近頃めっきり白い筋が増して来た。自分はまだまだと思っているうちに、十年は何時の間にか過ぎた。
「しかし他事《ひとごと》じゃないね君。その実僕も青春時代を全く牢獄の裡《うち》で暮したのだから」
青年は驚ろいた顔をした。
「牢獄とは何です」
「学校さ、それから図書館さ。考えると両方ともまあ牢獄のようなものだね」
青年は答えなかった。
「しかし僕がもし長い間の牢獄生活をつづけなければ、今日《こんにち》の僕は決して世の中に存在していないんだから仕方がない」
健三の調子は半ば弁解的であった。半ば自嘲的《じちょうてき》であった。過去の牢獄生活の上に現在の自分を築き上げた彼は、その現在の自分の上に、是非とも未来の自分を築き上げなければならなかった。それが彼の方針であった。そうして彼から見ると正しい方針に違なかった。けれどもその方針によって前《さき》へ進んで行くのが、この時の彼には徒《いたず》らに老ゆるという結果より外に何物をも持ち来《きた》さないように見えた。
「学問ばかりして死んでしまっても人間は詰らないね」
「そんな事はありません」
彼の意味はついに青年に通じなかった。彼は今の自分が、結婚当時の自分と、どんなに変って、細君の眼に映るだろうかを考えながら歩いた。その細君はまた子供を生むたびに老けて行った。髪の毛なども気の引けるほど抜ける事があった。そうして今は既に三番目の子を胎内に宿していた。
三十
家《うち》へ帰ると細君は奥の六畳に手枕《てまくら》をしたなり寐《ね》ていた。健三はその傍《そば》に散らばっている赤い片端《きれはし》だの物指《ものさし》だの針箱だのを見て、またかという顔をした。
細君はよく寐る女であった。朝もことによると健三より遅く起きた。健三を送り出してからまた横になる日も少なくはなかった。こうしてあくまで眠りを貪《むさ》ぼらないと、頭が痺《しび》れたようになって、その日一日何事をしても判然《はっきり》しないというのが、常に彼女の弁解であった。健三はあるいはそうかも知れないと思ったり、またはそんな事があるものかと考えたりした。ことに小言《こごと》をいったあとで、寐られるときは、後の方の感じが強く起った。
「不貞寐《ふてね》をするんだ」
彼は自分の小言が、歇私的里性《ヒステリーしょう》の細君に対して、どう反応するかを、よく観察してやる代りに、単なる面当《つらあて》のために、こうした不自然の態度を彼女が彼に示すものと解釈して、苦々しい囁《つぶや》きを口の内で洩《も》らす事がよくあった。
「何故《なぜ》夜早く寐ないんだ」
彼女は宵っ張であった。健三にこういわれる度に、夜は眼が冴《さ》えて寐られないから起きているのだという答弁をきっとした。そうして自分の起きていたい時までは必ず起きて縫物の手をやめなかった。
健三はこうした細君の態度を悪《にく》んだ。同時に彼女の歇私的里《ヒステリー》を恐れた
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