は米がどれほど要《い》ったものか、またそれが高過ぎるのか、安過ぎるのか、更に見当が付かなかった。
 この場合にも彼は細君の手から帳簿を受取って、ざっと眼を通しただけであった。
「何か変った事でもあるのかい」
「どうかして頂かないと……」
 細君は目下の暮し向について詳しい説明を夫にして聞かせた。
「不思議だね。それで能《よ》く今日《きょう》まで遣《や》って来られたものだね」
「実は毎月《まいげつ》余らないんです」
 余ろうとは健三にも思えなかった。先月|末《すえ》に旧《ふる》い友達が四、五人でどこかへ遠足に行くとかいうので、彼にも勧誘の端書をよこした時、彼は二円の会費がないだけの理由で、同行を断った覚《おぼえ》もあった。
「しかしかつかつ[#「かつかつ」に傍点]位には行きそうなものだがな」
「行っても行かなくっても、これだけの収入で遣って行くより仕方がないんですけれども」
 細君はいい悪《にく》そうに、箪笥《たんす》の抽匣《ひきだし》にしまって置いた自分の着物と帯を質に入れた顛末《てんまつ》を話した。
 彼は昔自分の姉や兄が彼らの晴着を風呂敷へ包んで、こっそり外へ持って出たりまた持って入ったりしたのをよく目撃した。他《ひと》に知れないように気を配りがちな彼らの態度は、あたかも罪を犯した日影者のように見えて、彼の子供心に淋《さび》しい印象を刻み付けた。こうした聯想《れんそう》が今の彼を特更《ことさら》に佗《わ》びしく思わせた。
「質を置いたって、御前が自分で置きに行ったのかい」
 彼自身いまだ質屋の暖簾《のれん》を潜《くぐ》った事のない彼は、自分より貧苦の経験に乏しい彼女が、平気でそんな所へ出入《でいり》するはずがないと考えた。
「いいえ頼んだんです」
「誰に」
「山野のうちの御婆《おばあ》さんにです。あすこには通いつけの質屋の帳面があって便利ですから」
 健三はその先を訊《き》かなかった。夫が碌な着物一枚さえ拵《こしら》えてやらないのに、細君が自分の宅《うち》から持ってきたものを質に入れて、家計の足《たし》にしなければならないというのは、夫の恥に相違なかった。

     二十一

 健三はもう少し働らこうと決心した。その決心から来る努力が、月々幾枚かの紙幣に変形して、細君の手に渡るようになったのは、それから間もない事であった。
 彼は自分の新たに受取ったものを洋服の内隠袋《うちかくし》から出して封筒のまま畳の上へ放り出した。黙ってそれを取り上げた細君は裏を見て、すぐその紙幣の出所《でどころ》を知った。家計の不足はかくの如くにして無言のうちに補なわれたのである。
 その時細君は別に嬉《うれ》しい顔もしなかった。しかしもし夫が優しい言葉に添えて、それを渡してくれたなら、きっと嬉しい顔をする事が出来たろうにと思った。健三はまたもし細君が嬉しそうにそれを受取ってくれたら優しい言葉も掛けられたろうにと考えた。それで物質的の要求に応ずべく工面されたこの金は、二人の間に存在する精神上の要求を充《み》たす方便としてはむしろ失敗に帰してしまった。
 細君はその折の物足らなさを回復するために、二、三日経ってから、健三に一反の反物を見せた。
「あなたの着物を拵《こしら》えようと思うんですが、これはどうでしょう」
 細君の顔は晴々《はればれ》しく輝やいていた。しかし健三の眼にはそれが下手《へた》な技巧を交えているように映った。彼はその不純を疑がった。そうしてわざと彼女の愛嬌《あいきょう》に誘われまいとした。細君は寒そうに座を立った。細君の座を立った後《あと》で、彼は何故《なぜ》自分の細君を寒がらせなければならない心理状態に自分が制せられたのかと考えて益《ますます》不愉快になった。
 細君と口を利く次の機会が来た時、彼はこういった。
「己《おれ》は決して御前の考えているような冷刻な人間じゃない。ただ自分の有《も》っている温かい情愛を堰《せ》き止めて、外へ出られないように仕向けるから、仕方なしにそうするのだ」
「誰もそんな意地の悪い事をする人はいないじゃありませんか」
「御前はしょっちゅうしているじゃないか」
 細君は恨めしそうに健三を見た。健三の論理《ロジック》はまるで細君に通じなかった。
「貴夫《あなた》の神経は近頃よっぽど変ね。どうしてもっと穏当に私《わたくし》を観察して下さらないのでしょう」
 健三の心には細君の言葉に耳を傾《かたぶ》ける余裕がなかった。彼は自分に不自然な冷《ひやや》かさに対して腹立たしいほどの苦痛を感じていた。
「あなたは誰も何にもしないのに、自分一人で苦しんでいらっしゃるんだから仕方がない」
 二人は互に徹底するまで話し合う事のついに出来ない男女《なんにょ》のような気がした。従って二人とも現在の自分を改める必要を感じ得なかっ
前へ 次へ
全86ページ中17ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング