細君の顔には多少|諷諫《ふうかん》の意が現われていた。
「それを聞きに、御前わざわざ薬王寺前《やくおうじまえ》へ廻ったのかい」
「またそんな皮肉を仰《おっ》しゃる。あなたはどうしてそう他《ひと》のする事を悪くばかり御取りになるんでしょう。妾《わたくし》あんまり御無沙汰《ごぶさた》をして済まないと思ったから、ただ帰りにちょっと伺っただけですわ」
彼が滅多に行った事のない兄の家へ、細君がたまに訪ねて行くのは、つまり夫の代りに交際《つきあい》の義理を立てているようなものなので、いかな健三もこれには苦情をいう余地がなかった。
「御兄《おあにい》さんは貴夫《あなた》のために心配していらっしゃるんですよ。ああいう人と交際《つきあ》いだして、またどんな面倒が起らないとも限らないからって」
「面倒ってどんな面倒を指すのかな」
「そりゃ起って見なければ、御兄《おあにい》さんにだって分りっ子ないでしょうけれども、何しろ碌《ろく》な事はないと思っていらっしゃるんでしょう」
碌な事があろうとは健三にも思えなかった。
「しかし義理が悪いからね」
「だって御金を遣《や》って縁を切った以上、義理の悪い訳はないじゃありませんか」
手切の金は昔し養育料の名前の下《もと》に、健三の父の手から島田に渡されたのである。それはたしか健三が廿二の春であった。
「その上その御金をやる十四、五年も前から貴夫は、もう貴夫の宅《うち》へ引き取られていらしったんでしょう」
いくつの年からいくつの年まで、彼が全然島田の手で養育されたのか、健三にも判然《はっきり》分らなかった。
「三つから七つまでですって。御兄《おあにい》さんがそう御仰《おっしゃ》いましたよ」
「そうかしら」
健三は夢のように消えた自分の昔を回顧した。彼の頭の中には眼鏡《めがね》で見るような細かい絵が沢山出た。けれどもその絵にはどれを見ても日付がついていなかった。
「証文にちゃんとそう書いてあるそうですから大丈夫間違はないでしょう」
彼は自分の離籍に関した書類というものを見た事がなかった。
「見ない訳はないわ。きっと忘れていらっしゃるんですよ」
「しかし八《やつ》ッで宅へ帰ったにしたところで復籍するまでは多少往来もしていたんだから仕方がないさ。全く縁が切れたという訳でもないんだからね」
細君は口を噤《つぐ》んだ。それが何故《なぜ》だか健三には淋《さび》しかった。
「己《おれ》も実は面白くないんだよ」
「じゃ御止《およ》しになれば好いのに。つまらないわ、貴夫、今になってあんな人と交際うのは。一体どういう気なんでしょう、先方《むこう》は」
「それが己には些《ちっ》とも解らない。向《むこう》でもさぞ詰らないだろうと思うんだがね」
「御兄さんは何でもまた金にしようと思って遣って来たに違いないから、用心しなくっちゃいけないっていっていらっしゃいましたよ」
「しかし金は始めから断っちまったんだから、構わないさ」
「だってこれから先何をいい出さないとも限らないわ」
細君の胸には最初からこうした予感が働らいていた。其所《そこ》を既に防ぎ止めたとばかり信じていた理に強い健三の頭に、微《かす》かな不安がまた新らしく萌《きざ》した。
二十
その不安は多少彼の仕事の上に即《つ》いて廻った。けれども彼の仕事はまたその不安の影をどこかへ埋《うず》めてしまうほど忙がしかった。そうして島田が再び健三の玄関へ現れる前に、月は早くも末になった。
細君は鉛筆で汚ならしく書き込んだ会計簿を持って彼の前に出た。
自分の外で働いて取る金額の全部を挙げて細君の手に委《ゆだ》ねるのを例にしていた健三には、それが意外であった。彼はいまだかつて月末《げつまつ》に細君の手から支出の明細書《めいさいがき》を突き付けられた例《ためし》がなかった。
「まあどうにかしているんだろう」
彼は常にこう考えた。それで自分に金の要《い》る時は遠慮なく細君に請求した。月々買う書物の代価だけでも随分の多額に上《のぼ》る事があった。それでも細君は澄ましていた。経済に暗い彼は時として細君の放漫をさえ疑《うたぐ》った。
「月々の勘定はちゃんとして己《おれ》に見せなければいけないぜ」
細君は厭《いや》な顔をした。彼女自身からいえば自分ほど忠実な経済家はどこにもいない気なのである。
「ええ」
彼女の返事はこれぎりであった。そうして月末《つきずえ》が来ても会計簿はついに健三の手に渡らなかった。健三も機嫌の好《い》い時はそれを黙認した。けれども悪い時は意地になってわざと見せろと逼《せま》る事があった。そのくせ見せられるとごちゃごちゃしてなかなか解らなかった。たとい帳面づらは細君の説明を聴いて解るにしても、実際月に肴《さかな》をどれだけ食《くっ》たものか、また
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