らし》を引いて行く彫刻で出来上っていた。彼は銀で作ったこの鼠と珊瑚《さんご》で拵えたこの唐辛子とを、自分の宝物のように大事がった。彼は時々この脇差が抜いて見たくなった。また何度も抜こうとした。けれども脇差は何時《いつ》も抜けなかった。――この封建時代の装飾品もやはりその人の好意で小さな健三の手に渡されたのである。
彼はまたその人に連れられて、よく船に乗った。船にはきっと腰蓑《こしみの》を着けた船頭がいて網を打った。いな[#「いな」に傍点]だの鰡《ぼら》だのが水際まで来て跳ね躍《おど》る様が小さな彼の眼に白金《しろがね》のような光を与えた。船頭は時々一里も二里も沖へ漕《こ》いで行って、海※[#「魚+喞のつくり」、第3水準1−94−46]《かいず》というものまで捕った。そういう場合には高い波が来て舟を揺り動かすので、彼の頭はすぐ重くなった。そうして舟の中へ寐《ね》てしまう事が多かった。彼の最も面白がったのは河豚《ふぐ》の網にかかった時であった。彼は杉箸《すぎばし》で河豚の腹をかんから[#「かんから」に傍点]太鼓《だいこ》のように叩《たた》いて、その膨《ふく》れたり怒ったりする様子を見て楽しんだ。……
吉田と会見した後《あと》の健三の胸には、ふとこうした幼時の記憶が続々湧《わ》いて来る事があった。凡《すべ》てそれらの記憶は、断片的な割に鮮明《あざやか》に彼の心に映るものばかりであった。そうして断片的ではあるが、どれもこれも決してその人と引き離す事は出来なかった。零砕《れいさい》の事実を手繰《たぐ》り寄せれば寄せるほど、種が無尽蔵にあるように見えた時、またその無尽蔵にある種の各自《おのおの》のうちには必ず帽子を披《かぶ》らない男の姿が織り込まれているという事を発見した時、彼は苦しんだ。
「こんな光景をよく覚えているくせに、何故《なぜ》自分の有《も》っていたその頃の心が思い出せないのだろう」
これが健三にとって大きな疑問になった。実際彼は幼少の時分これほど世話になった人に対する当時のわが心持というものをまるで忘れてしまった。
「しかしそんな事を忘れるはずがないんだから、ことによると始めからその人に対してだけは、恩義相応の情合《じょうあい》が欠けていたのかも知れない」
健三はこうも考えた。のみならず多分この方だろうと自分を解釈した。
彼はこの事件について思い出した幼少の時の記憶を細君に話さなかった。感情に脆《もろ》い女の事だから、もしそうでもしたら、あるいは彼女の反感を和らげるに都合が好かろうとさえ思わなかった。
十六
待ち設けた日がやがて来た。吉田と島田とはある日の午後連れ立って健三の玄関に現れた。
健三はこの昔の人に対してどんな言葉を使って、どんな応対をして好《い》いか解らなかった。思慮なしにそれらを極《き》めてくれる自然の衝動が今の彼にはまるで欠けていた。彼は二十年余も会わない人と膝《ひざ》を突き合せながら、大した懐かしみも感じ得ずに、むしろ冷淡に近い受答えばかりしていた。
島田はかねて横風《おうふう》だという評判のある男であった。健三の兄や姉は単にそれだけでも彼を忌み嫌っている位であった。実は健三自身も心のうちでそれを恐れていた。今の健三は、単に言葉遣いの末でさえ、こんな男から自尊心を傷《きずつ》けられるには、あまりに高過ぎると、自分を評価していた。
しかし島田は思ったよりも鄭寧《ていねい》であった。普通|初見《しょけん》の人が挨拶《あいさつ》に用いる「ですか」とか、「ません」とかいうてには[#「てには」に傍点]で、言葉の語尾を切る注意をわざと怠らないように見えた。健三はむかしその人から健坊《けんぼう》々々と呼ばれた幼い時分を思い出した。関係が絶えてからも、会いさえすれば、やはり同じ健坊々々で通すので、彼はそれを厭《いや》に感じた過去も、自然胸のうちに浮かんだ。
「しかしこの調子なら好《い》いだろう」
健三はそれで、出来るだけ不快の顔を二人に見せまいと力《つと》めた。向うもなるべく穏かに帰るつもりと見えて、少しも健三の気を悪くするような事はいわなかった。それがために、当然双方の間に話題となるべき懐旧談なども殆《ほとん》ど出なかった。従って談話はややともすると途切れがちになった。
健三はふと雨の降った朝の出来事を考えた。
「この間二度ほど途中で御目にかかりましたが、時々あの辺を御通りになるんですか」
「実はあの高橋の総領の娘が片付いている所がついこの先にあるもんですから」
高橋というのは誰の事だか健三には一向解らなかった。
「はあ」
「そら知ってるでしょう。あの芝《しば》の」
島田の後妻の親類が芝にあって、其所《そこ》の家《うち》は何でも神主《かんぬし》か坊主だという事を健三は子供心に聞いて覚
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