もそうした点において夫の権利を認める女であった。けれども表向《おもてむき》夫の権利を認めるだけに、腹の中には何時も不平があった。事々《ことごと》について出て来る権柄《けんぺい》ずくな夫の態度は、彼女に取って決して心持の好いものではなかった。何故《なぜ》もう少し打ち解けてくれないのかという気が、絶えず彼女の胸の奥に働らいた。そのくせ夫を打ち解けさせる天分も技倆《ぎりょう》も自分に充分具えていないという事実には全く無頓着《むとんじゃく》であった。
「あなた島田と交際《つきあ》っても好いと受合っていらしったようですね」
「ああ」
健三はそれがどうしたといった風の顔付をした。細君は何時でも此所《ここ》まで来て黙ってしまうのを例にしていた。彼女の性質として、夫がこういう態度に出ると、急に厭気《いやき》がさして、それから先一歩も前へ出る気になれないのである。その不愛想な様子がまた夫の気質に反射して、益《ますます》彼を権柄ずくにしがちであった。
「御前や御前の家族に関係した事でないんだから、構わないじゃないか、己《おれ》一人で極《き》めたって」
「そりゃ私《わたくし》に対して何も構って頂かなくっても宜《よ》ござんす。構ってくれったって、どうせ構って下さる方じゃないんだから、……」
学問をした健三の耳には、細君のいう事がまるで脱線であった。そうしてその脱線はどうしても頭の悪い証拠としか思われなかった。「また始まった」という気が腹の中でした。しかし細君はすぐ当の問題に立ち戻って、彼の注意を惹《ひ》かなければならないような事をいい出した。
「しかし御父さまに悪いでしょう。今になってあの人と御交際《おつきあい》いになっちゃあ」
「御父さまって己《おれ》のおやじかい」
「無論|貴方《あなた》の御父さまですわ」
「己のおやじはとうに死んだじゃないか」
「しかし御亡くなりになる前、島田とは絶交だから、向後《こうご》一切|付合《つきあい》をしちゃならないって仰《おっ》しゃったそうじゃありませんか」
健三は自分の父と島田とが喧嘩をして義絶した当時の光景をよく覚えていた。しかし彼は自分の父に対してさほど情愛の籠《こも》った優しい記憶を有《も》っていなかった。その上絶交|云々《うんぬん》についても、そう厳重にいい渡された覚《おぼえ》はなかった。
「御前誰からそんな事を聞いたのかい。己は話したつもりはないがな」
「貴方じゃありません。御兄《おあにい》さんに伺ったんです」
細君の返事は健三に取って不思議でも何でもなかった。同時に父の意志も兄の言葉も、彼には大した影響を与えなかった。
「おやじは阿爺《おやじ》、兄は兄、己は己なんだから仕方がない。己から見ると、交際を拒絶するだけの根拠がないんだから」
こういい切った健三は、腹の中でその交際《つきあい》が厭で厭で堪らないのだという事実を意識した。けれどもその腹の中はまるで細君の胸に映らなかった。彼女はただ自分の夫がまた例の頑固を張り通して、徒《いたず》らに皆なの意見に反対するのだとばかり考えた。
十五
健三は昔その人に手を引かれて歩いた。その人は健三のために小さい洋服を拵《こし》らえてくれた。大人さえあまり外国の服装に親しみのない古い時分の事なので、裁縫師は子供の着るスタイルなどにはまるで頓着《とんじゃく》しなかった。彼の上着には腰のあたりに釦《ボタン》が二つ並んでいて、胸は開《あ》いたままであった。霜降の羅紗《ラシャ》も硬くごわごわして、極めて手触《てざわり》が粗《あら》かった。ことに洋袴《ズボン》は薄茶色に竪溝《たてみぞ》の通った調馬師でなければ穿《は》かないものであった。しかし当時の彼はそれを着て得意に手を引かれて歩いた。
彼の帽子もその頃の彼には珍らしかった。浅い鍋底《なべぞこ》のような形をしたフェルトをすぽりと坊主頭へ頭巾《ずきん》のように被《かぶ》るのが、彼に大した満足を与えた。例の如くその人に手を引かれて、寄席《よせ》へ手品を見に行った時、手品師が彼の帽子を借りて、大事な黒羅紗の山の裏から表へ指を突き通して見せたので、彼は驚ろきながら心配そうに、再びわが手に帰った帽子を、何遍か撫《な》でまわして見た事もあった。
その人はまた彼のために尾の長い金魚をいくつも買ってくれた。武者絵《むしゃえ》、錦絵《にしきえ》、二枚つづき三枚つづきの絵も彼のいうがままに買ってくれた。彼は自分の身体《からだ》にあう緋縅《ひおど》しの鎧《よろい》と竜頭《たつがしら》の兜《かぶと》さえ持っていた。彼は日に一度位ずつその具足を身に着けて、金紙《きんがみ》で拵えた采配《さいはい》を振り舞わした。
彼はまた子供の差す位な短かい脇差《わきざし》の所有者であった。その脇差の目貫《めぬき》は、鼠が赤い唐辛子《とうが
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