っとこういって当面の問題を投げた。そうして解決を付けるまで進まないために起る面倒臭さは何時までも辛抱した。しかしその辛抱は自分自身に取って決して快よいものではなかった。健三から見るとなおさら心持が悪かった。
「執拗《しつおう》だ」
「執拗だ」
二人は両方で同じ非難の言葉を御互の上に投げかけ合った。そうして御互に腹の中にある蟠《わだか》まりを御互の素振《そぶり》から能く読んだ。しかもその非難に理由のある事もまた御互に認め合わなければならなかった。
我慢な健三は遂に細君の生家へ行かなくなった。何故行かないとも訊《き》かず、また時々行ってくれとも頼まずにただ黙っていた細君は、依然として「面倒臭い」を心の中《うち》に繰り返すぎりで、少しもその態度を改めようとしなかった。
「これで沢山だ」
「己もこれで沢山だ」
また同じ言葉が双方の胸のうちでしばしば繰り返された。
それでも護謨紐《ゴムひも》のように弾力性のある二人の間柄には、時により日によって多少の伸縮《のびちぢみ》があった。非常に緊張して何時切れるか分らないほどに行き詰ったかと思うと、それがまた自然の勢で徐々《そろそろ》元へ戻って来た。そうした日和《ひより》の好《い》い精神状態が少し継続すると、細君の唇から暖かい言葉が洩《も》れた。
「これは誰の子?」
健三の手を握って、自分の腹の上に載せた細君は、彼にこんな問を掛けたりした。その頃細君の腹はまだ今のように大きくはなかった。しかし彼女はこの時既に自分の胎内に蠢《うご》めき掛けていた生の脈搏《みゃくはく》を感じ始めたので、その微動を同情のある夫の指頭《しとう》に伝えようとしたのである。
「喧嘩《けんか》をするのはつまり両方が悪いからですね」
彼女はこんな事もいった。それほど自分が悪いと思っていない頑固《がんこ》な健三も、微笑するより外に仕方がなかった。
「離れればいくら親しくってもそれぎりになる代りに、一所にいさえすれば、たとい敵《かたき》同志でもどうにかこうにかなるものだ。つまりそれが人間なんだろう」
健三は立派な哲理でも考え出したように首を捻《ひね》った。
六十六
御常や島田の事以外に、兄と姉の消息も折々健三の耳に入った。
毎年《まいとし》時候が寒くなるときっと身体《からだ》に故障の起る兄は、秋口からまた風邪《かぜ》を引いて一週間ほど局を休んだ揚句、気分の悪いのを押して出勤した結果、幾日《いくか》経っても熱が除《と》れないで苦しんでいた。
「つい無理をするもんだから」
無理をして月給の寿命を長くするか、養生をして免職の時期を早めるか、彼には二つの内どっちかを択《えら》ぶより外に仕方がないように見えたのである。
「どうも肋膜《ろくまく》らしいっていうんだがね」
彼は心細い顔をした。彼は死を恐れた。肉の消滅について何人《なんびと》よりも強い畏怖《いふ》の念を抱《いだ》いていた。そうして何人よりも強い速度で、その肉塊を減らして行かなければならなかった。
健三は細君に向っていった。――
「もう少し平気で休んでいられないものかな。責《せ》めて熱の失《な》くなるまででも好《い》いから」
「そうしたいのは山々なんでしょうけれども、やッぱりそうは出来ないんでしょう」
健三は時々兄が死んだあとの家族を、ただ活計《くらし》の方面からのみ眺める事があった。彼はそれを残酷ながら自然の眺め方として許していた。同時にそういう観察から逃《のが》れる事の出来ない自分に対して一種の不快を感じた。彼は苦い塩を嘗《な》めた。
「死にやしまいな」
「まさか」
細君は取り合わなかった。彼女はただ自分の大きな腹を持て余してばかりいた。生家《さと》と縁故のある産婆が、遠い所から俥《くるま》に乗って時々遣《やっ》て来た。彼はその産婆が何をしに来て、また何をして帰って行くのか全く知らなかった。
「腹でも揉《も》むのかい」
「まあそうです」
細君ははかばかしい返事さえしなかった。
その内兄の熱がころりと除《と》れた。
「御祈祷《ごきとう》をなすったんですって」
迷信家の細君は加持《かじ》、祈祷、占い、神信心《かみしんじん》、大抵の事を好いていた。
「御前が勧めたんだろう」
「いいえそれが私《わたくし》なんぞの知らない妙な御祈祷なのよ。何でも髪剃《かみそり》を頭の上へ載せて遣るんですって」
健三には髪剃の御蔭で、しこじら[#「しこじら」に傍点]した体熱が除れようとも思えなかった。
「気のせいで熱が出るんだから、気のせいでそれがまた直《すぐ》除れるんだろうよ。髪剃でなくったって、杓子《しゃくし》でも鍋蓋《なべぶた》でも同じ事さ」
「しかしいくら御医者の薬を飲んでも癒《なお》らないもんだから、試しに遣って見たらどうだろうって勧められて、とう
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