。だいち身上持《しんしょうもち》が好《い》いからな」
島田の家庭に風波の起った時、彼女はあるだけの言葉を父の前に並べ立てた。そうしてその言葉の上にまた悲しい涙と口惜《くや》しい涙とを多量に振り掛けた。父は全く感動した。すぐ彼女の味方になってしまった。
御世辞が上手だという点において健三の父は彼の姉をも大変|可愛《かあい》がっていた。無心に来られるたんびに、「そうそうは己《おれ》だって困るよ」とか何とかいいながら、いつか入用《いりよう》だけの金子《きんす》は手文庫から取出されていた。
「比田はあんな奴だが、御夏が可愛想《かわいそう》だから」
姉の帰った後で、父は何時でも弁解らしい言葉を傍《はた》のものに聞こえるようにいった。
しかしこれほど父を自由にした姉の口先は、御常に比べると遥かに下手《へた》であった。真《まこと》しやかという点において遠く及ばなかった。実際十六、七になった時の健三は、彼女と接触した自分以外のもので、果してその性格を見抜いたものが何人あるだろうかと、一時疑って見た位、彼女の口は旨《うま》かった。
彼女に会うときの健三が、心中迷惑を感じたのは大部分この口にあった。
「御前を育てたものはこの私《わたし》だよ」
この一句を二時間でも三時間でも布衍《ふえん》して、幼少の時分恩になった記憶をまた新らしく復習させられるのかと思うと、彼は辟易《へきえき》した。
「島田は御前の敵《かたき》だよ」
彼女は自分の頭の中に残っているこの古い主観を、活動写真のように誇張して、また彼の前に露《さら》け出すに極《きま》っていた。彼はそれにも辟易しない訳に行かなかった。
どっちを聴くにしても涙が交《まじ》るに違なかった。彼は装飾的に使用されるその涙を見るに堪えないような心持がした。彼女は話す時に姉のような大きな声を出す女ではなかった。けれども自分の必要と思う場合には、その言葉に厭《いや》らしい強い力を入れた。円朝《えんちょう》の人情噺《にんじょうばなし》に出て来る女が、長い火箸《ひばし》を灰の中に突き刺し突き刺し、他《ひと》に騙《だま》された恨《うらみ》を述べて、相手を困らせるのとほぼ同じ態度でまた同じ口調であった。
彼の予期が外れた時、彼はそれを仕合せと考えるよりもむしろ不思議に思う位、御常の性格が牢《ろう》として崩すべからざる判明《はっきり》した一種の型になって、彼の頭のどこかに入っていたのである。
細君は彼のために説明した。
「三十年|近《ぢか》くにもなる古い事じゃありませんか。向うだって今となりゃ少しは遠慮があるでしょう。それに大抵の人はもう忘れてしまいまさあね。それから人間の性質だって長い間には少しずつ変って行きますからね」
遠慮、忘却、性質の変化、それらのものを前に並べて考えて見ても、健三には少しも合点《がてん》が行かなかった。
「そんな淡泊《あっさり》した女じゃない」
彼は腹の中でこういわなければどうしても承知が出来なかった。
六十五
御常を知らない細君はかえって夫の執拗《しつおう》を笑った。
「それが貴方《あなた》の癖だから仕方がない」
平生《へいぜい》彼女の眼に映る健三の一部分はたしかにこうなのであった。ことに彼と自分の生家《さと》との関係について、夫のこの悪い癖《へき》が著るしく出ているように彼女は思っていた。
「己《おれ》が執拗なのじゃない、あの女が執拗なのだ。あの女と交際《つきあ》った事のない御前には、己の批評の正しさ加減が解らないからそんなあべこべ[#「あべこべ」に傍点]をいうのだ」
「だって現に貴夫《あなた》の考えていた女とはまるで違った人になって貴夫の前へ出て来た以上は、貴夫の方で昔の考えを取り消すのが当然じゃありませんか」
「本当に違った人になったのなら何時でも取り消すが、そうじゃないんだ。違ったのは上部《うわべ》だけで腹の中は故《もと》の通りなんだ」
「それがどうして分るの。新らしい材料も何にもないのに」
「御前に分らないでも己にはちゃんと分ってるよ」
「随分独断的ね、貴夫も」
「批評が中《あた》ってさえいれば独断的で一向|差支《さしつかえ》ないものだ」
「しかしもし中っていなければ迷惑する人が大分《だいぶ》出て来るでしょう。あの御婆《おばあ》さんは私《わたくし》と関係のない人だから、どうでも構いませんけれども」
健三には細君の言葉が何を意味しているのか能《よ》く解った。しかし細君はそれ以上何もいわなかった。腹の中で自分の父母兄弟を弁護している彼女は、表向《おもてむき》夫と遣《や》り合って行ける所まで行く気はなかった。彼女は理智に富んだ性質《たち》ではなかった。
「面倒臭《めんどくさ》い」
少し込み入った議論の筋道を辿《たど》らなければならなくなると、彼女はき
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