しろ》は高い屏風《びょうぶ》のように切立《きった》っているので、普通の食堂の如く、広い室《へや》を一目に見渡す事は出来なかったが、自分と一列に並んでいるものの顔だけは自由に眺められた。それは皆な何時湯に入ったか分らない顔であった。
 こんな生活をしている健三が、この同宿の男の眼にはさも気の毒に映ったと見えて、彼は能《よ》く健三を午餐《ひるめし》に誘い出した。銭湯へも案内した。茶の時刻には向うから呼びに来た。健三が彼から金を借りたのはこうして彼と大分《だいぶ》懇意になった時の事であった。
 その時彼は反故《ほご》でも棄《す》てるように無雑作な態度を見せて、五|磅《ポンド》のバンクノートを二枚健三の手に渡した。何時返してくれとは無論いわなかった。健三の方でも日本へ帰ったらどうにかなるだろう位に考えた。
 日本へ帰った健三は能くこのバンクノートの事を覚えていた。けれども催促状を受取るまでは、それほど急に返す必要が出て来《き》ようとは思わなかった。行き詰った彼は仕方なしに、一人の旧《ふる》い友達の所へ出掛けて行った。彼はその友達の大した金持でない事を承知していた。しかし自分よりも少しは融通の利く地位にある事も呑み込んでいた。友達は果して彼の請求を容《い》れて、要《い》るだけの金を彼の前に揃《そろ》えてくれた。彼は早速それを外国で恩を受けた人の許《もと》へ返しに行った。新らしく借りた友達へは月に十円ずつの割で成し崩しに取ってもらう事に極《き》めた。

     六十

 こんな具合にして漸《やっ》と東京に落付《おちつ》いた健三は、物質的に見た自分の、如何《いか》にも貧弱なのに気が付いた。それでも金力を離れた他《た》の方面において自分が優者であるという自覚が絶えず彼の心に往来する間は幸福であった。その自覚が遂に金の問題で色々に攪《か》き乱されてくる時、彼は始めて反省した。平生《へいぜい》何心なく身に着けて外へ出る黒木綿《くろもめん》の紋付さえ、無能力の証拠のように思われ出した。
「この己《おれ》をまた強請《せび》りに来る奴がいるんだから非道《ひど》い」
 彼は最も質《たち》の悪いその種の代表者として島田の事を考えた。
 今の自分がどの方角から眺めても島田より好《い》い社会的地位を占めているのは明白な事実であった。それが彼の虚栄心に少しの反響も与えないのもまた明白な事実であった。昔し自分を呼び捨《ず》てにした人から今となって鄭寧《ていねい》な挨拶《あいさつ》を受けるのは、彼に取って何の満足にもならなかった。小遣《こづかい》の財源のように見込まれるのは、自分を貧乏人と見傚《みな》している彼の立場から見て、腹が立つだけであった。
 彼は念のために姉の意見を訊《たず》ねて見た。
「一体どの位困ってるんでしょうね、あの男は」
「そうさね。そう度々無心をいって来るようじゃ、随分苦しいのかも知れないね。だけど健ちゃんだってそうそう他《ひと》にばかり貢《みつ》いでいた日にゃ際限がないからね。いくら御金が取れたって」
「御金がそんなに取れるように見えますか」
「だって宅《うち》なんぞに比べれば、御前さん、御金がいくらでも取れる方じゃないか」
 姉は自分の宅の活計《くらし》を標準にしていた。相変らず口数の多い彼女は、比田《ひだ》が月々貰《もら》うものを満足に持って帰った例《ためし》のない事や、俸給の少ない割に交際費の要《い》る事や、宿直が多いので弁当代だけでも随分の額《たか》に上《のぼ》る事や、毎月の不足はやっと盆暮の賞与で間に合わせている事などを詳しく健三に話して聞かせた。
「その賞与だって、そっくり私《あたし》の手に渡してくれるんじゃないんだからね。だけど近頃じゃ私たち二人はまあ隠居見たようなもので、月々食料を彦《ひこ》さんの方へ遣《や》って賄《まか》なってもらってるんだから、少しは楽にならなけりゃならない訳さ」
 養子と経済を別々にしながら一所の家《うち》に住んでいた姉夫婦は、自分たちの搗《つ》いた餅《もち》だの、自分たちの買った砂糖だのという特別な食物《くいもの》を有《も》っていた。自分たちの所へ来た客に出す御馳走《ごちそう》などもきっと自分たちの懐中から払う事にしているらしかった。健三は殆《ほと》んど考えの及ばないような眼付をして、極端に近い一種の個人主義の下に存在しているこの一家の経済状態を眺めた。しかし主義も理窟も有たない姉にはまたこれほど自然な現象はなかったのである。
「健ちゃんなんざ、こんな真似《まね》をしなくっても済むんだから好いやあね。それに腕があるんだから、稼ぎさいすりゃいくらでも欲しいだけの御金は取れるしさ」
 彼女のいう事を黙って聞いていると、島田などはどこへ行ったか分らなくなってしまいがちであった。それでも彼女は最後に付け加えた
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