て眺めなければならなかった。ハイカラな彼はアイロニーのために手非道《てひど》く打ち据えられた。彼の唇は苦笑する勇気さえ有《も》たなかった。
 その内彼の荷物が着いた。細君に指輪一つ買って来なかった彼の荷物は、書籍だけであった。狭苦しい隠居所のなかで、彼はその箱の蓋《ふた》さえ開ける事の出来ないのを馬鹿らしく思った。彼は新らしい家を探し始めた。同時に金の工面もしなければならなかった。
 彼は唯一の手段として、今まで継続して来た自分の職を辞した。彼はその行為に伴なって起る必然な結果として、一時《いちじ》賜金《しきん》を受取る事が出来た。一年勤めれば役をやめた時に月給の半額をくれるという規定に従って彼の手に入ったその金額は、無論大したものではなかった。けれども彼はそれで漸《やっ》と日常生活に必要な家具家財を調《ととの》えた。
 彼は僅《わずか》ばかりの金を懐にして、或る古い友達と一所に方々の道具屋などを見て歩いた。その友達がまた品物の如何《いかん》にかかわらずむやみに価切《ねぎ》り倒す癖を有っているので、彼はただ歩くために少なからぬ時間を費やさされた。茶盆、烟草盆《タバコぼん》、火鉢《ひばち》、丼鉢《どんぶりばち》、眼に入《い》るものはいくらでもあったが、買えるのは滅多に出て来なかった。これだけに負けて置けと命令するようにいって、もし主人がその通りにしないと、友達は健三を店先に残したまま、さっさと先へ歩いて行った。健三も仕方なしに後を追懸《おっかけ》なければならなかった。たまに愚図々々していると、彼は大きな声を出して遠くから健三を呼んだ。彼は親切な男であった。同時に自分の物を買うのか他《ひと》の物を買うのか、その区別を弁《わきま》えていないように猛烈な男であった。

     五十九

 健三はまた日常使用する家具の外に、本棚だの机だのを新調しなければならなかった。彼は洋風の指物《さしもの》を渡世《とせい》にする男の店先に立って、しきりに算盤《そろばん》を弾《はじ》く主人と談判をした。
 彼の誂《あつら》えた本棚には硝子戸《ガラスど》も後部《うしろ》も着いていなかった。塵埃《ほこり》の積る位は懐中に余裕のない彼の意とする所ではなかった。木がよく枯れていないので、重い洋書を載せると、棚板が気の引けるほど撓《しな》った。
 こんな粗末な道具ばかりを揃えるのにさえ彼は少からぬ時間を費やした。わざわざ辞職して貰《もら》った金は何時の間にかもうなくなっていた。迂闊《うかつ》な彼は不思議そうな眼を開いて、索然たる彼の新居を見廻した。そうして外国にいる時、衣服を作る必要に逼《せま》られて、同宿の男から借りた金はどうして返して好《い》いか分らなくなってしまったように思い出した。
 そこへその男からもし都合が付くなら算段してもらいたいという催促状が届いた。健三は新らしく拵《こしら》えた高い机の前に坐《すわ》って、少時《しばらく》彼の手紙を眺めていた。
 僅《わずか》の間とはいいながら、遠い国で一所《いっしょ》に暮したその人の記憶は、健三に取って淡い新しさを帯びていた。その人は彼と同じ学校の出身であった。卒業の年もそう違わなかった。けれども立派な御役人として、ある重要な事項取調のためという名義の下《もと》に、官命で遣《や》って来たその人の財力と健三の給費との間には、殆《ほと》んど比較にならないほどの懸隔があった。
 彼は寝室の外に応接間も借りていた。夜になると繻子《しゅす》で作った刺繍《ぬいとり》のある綺麗《きれい》な寝衣《ナイトガウン》を着て、暖かそうに暖炉の前で書物などを読んでいた。北向の狭苦しい部屋で押し込められたように凝《じっ》と竦《すく》んでいる健三は、ひそかに彼の境遇を羨《うらや》んだ。
 その健三には昼食《ちゅうじき》を節約した憐《あわ》れな経験さえあった。ある時の彼は表へ出た帰掛《かえりがけ》に途中で買ったサンドウィッチを食いながら、広い公園の中を目的《めあて》もなく歩いた。斜めに吹きかける雨を片々《かたかた》の手に持った傘で防《よ》けつつ、片々の手で薄く切った肉と麺麭《パン》を何度にも頬張《ほおば》るのが非常に苦しかった。彼は幾たびか其所《そこ》にあるベンチへ腰を卸《おろ》そうとしては躊躇《ちゅうちょ》した。ベンチは雨のために悉《ことごと》く濡《ぬ》れていたのである。
 ある時の彼は町で買って来たビスケットの缶を午《ひる》になると開いた。そうして湯も水も呑《の》まずに、硬くて脆《もろ》いものをぼりぼり噛《か》み摧《くだ》いては、生唾《なまつばき》の力で無理に嚥《の》み下《くだ》した。
 ある時の彼はまた馭者《ぎょしゃ》や労働者と一所に如何《いかが》わしい一膳飯屋《いちぜんめしや》で形《かた》ばかりの食事を済ました。其所の腰掛の後部《う
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