まつげ》の鎖《とざ》している奥を見るために、彼は正体《たわい》なく寐入った細君を、わざわざ揺《ゆす》り起して見る事が折々あった。細君がもっと寐かして置いてくれれば好《い》いのにという訴えを疲れた顔色に現わして重い瞼を開くと、彼はその時始めて後悔した。しかし彼の神経はこんな気の毒な真似《まね》をしてまでも、彼女の実在を確かめなければ承知しなかったのである。
やがて彼は寐衣《ねまき》を着換えて、自分の床に入った。そうして濁りながら動いているような彼の頭を、静かな夜の支配に任せた。夜はその濁りを清めてくれるには余りに暗過ぎた、しかし騒がしいその動きを止めるには充分静かであった。
翌朝《あくるあさ》彼は自分の名を呼ぶ細君の声で眼を覚ました。
「貴夫《あなた》もう時間ですよ」
まだ床を離れない細君は、手を延ばして彼の枕元から取った袂時計《たもとどけい》を眺めていた。下女《げじょ》が俎板《まないた》の上で何か刻む音が台所の方で聞こえた。
「婢《おんな》はもう起きてるのか」
「ええ。先刻《さっき》起しに行ったんです」
細君は下女を起して置いてまた床の中に這入《はい》ったのである。健三はすぐ起き上がった。細君も同時に立った。
昨夜《ゆうべ》の事は二人ともまるで忘れたように何にもいわなかった。
五十二
二人は自分たちのこの態度に対して何の注意も省察《せいさつ》も払わなかった。二人は二人に特有な因果関係を有《も》っている事を冥々《めいめい》の裡《うち》に自覚していた。そうしてその因果関係が一切の他人には全く通じないのだという事も能《よ》く呑《の》み込んでいた。だから事状を知らない第三者の眼に、自分たちがあるいは変に映りはしまいかという疑念さえ起さなかった。
健三は黙って外へ出て、例の通り仕事をした。しかしその仕事の真際中に彼は突然細君の病気を想像する事があった。彼の眼の前に夢を見ているような細君の黒い眼が不意に浮んだ。すると彼はすぐ自分の立っている高い壇から降りて宅《うち》へ帰らなければならないような気がした。あるいは今にも宅から迎《むかい》が来るような心持になった。彼は広い室《へや》の片隅にいて真ん向うの突当《つきあた》りにある遠い戸口を眺めた。彼は仰向いて兜《かぶと》の鉢金《はちがね》を伏せたような高い丸天井を眺めた。仮漆《ヴァーニッシ》で塗り上げた角材を幾段にも組み上げて、高いものを一層高く見えるように工夫したその天井は、小さい彼の心を包むに足りなかった。最後に彼の眼は自分の下に黒い頭を並べて、神妙に彼のいう事を聴いている多くの青年の上に落ちた。そうしてまた卒然として現実に帰るべく彼らから余儀なくされた。
これほど細君の病気に悩まされていた健三は、比較的島田のために崇《たた》られる恐れを抱《いだ》かなかった。彼はこの老人を因業《いんごう》で強慾《ごうよく》な男と思っていた。しかし一方ではまたそれらの性癖を充分発揮する能力がないものとしてむしろ見縊《みくび》ってもいた。ただ要《い》らぬ会談に惜い時間を潰《つぶ》されるのが、健三には或種類の人の受ける程度より以上の煩いになった。
「何をいって来る気かしら、この次は」
襲われる事を予期して、暗《あん》にそれを苦にするような健三の口振《くちぶり》が、細君の言葉を促がした。
「どうせ分っているじゃありませんか。そんな事を気になさるより早く絶交した方がよっぽど得ですわ」
健三は心の裡で細君のいう事を肯《うけ》がった。しかし口ではかえって反対な返事をした。
「それほど気にしちゃいないさ、あんな者。もともと恐ろしい事なんかないんだから」
「恐ろしいって誰もいやしませんわ。けれども面倒臭《めんどくさ》いにゃ違いないでしょう、いくら貴夫《あなた》だって」
「世の中にはただ面倒臭い位な単純な理由でやめる事の出来ないものがいくらでもあるさ」
多少片意地の分子を含んでいるこんな会話を細君と取り換わせた健三は、その次島田の来た時、例《いつも》よりは忙がしい頭を抱えているにもかかわらず、ついに面会を拒絶する訳に行かなかった。
島田のちと話したい事があるといったのは、細君の推察通りやっぱり金の問題であった。隙《すき》があったら飛び込もうとして、この間から覘《ねらい》を付けていた彼は、何時まで待っても際限がないとでも思ったものか、機会のあるなしに頓着《とんじゃく》なく、ついに健三に肉薄《にくはく》し始めた。
「どうも少し困るので。外にどこといって頼みに行く所もない私《わたし》なんだから、是非一つ」
老人の言葉のどこかには、義務として承知してもらわなくっちゃ困るといった風の横着さが潜んでいた。しかしそれは健三の神経を自尊心の一角において傷《いた》め付けるほど強くも現われていなかった。
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