直接《じか》に繋《つな》がっていないような眼を一杯に開けて、漫然と瞳孔《ひとみ》の向いた見当を眺めていた。
「おい」
 健三は細君の肩を揺《ゆす》った。細君は返事をせずにただ首だけをそろりと動かして心持健三の方に顔を向けた。けれども其所《そこ》に夫の存在を認める何らの輝きもなかった。
「おい、己だよ。分るかい」
 こういう場合に彼の何時でも用いる陳腐で簡略でしかもぞんざい[#「ぞんざい」に傍点]なこの言葉のうちには、他《ひと》に知れないで自分にばかり解っている憐憫《れんびん》と苦痛と悲哀があった。それから跪《ひざ》まずいて天に祷《いの》る時の誠と願もあった。
「どうぞ口を利いてくれ。後生だから己の顔を見てくれ」
 彼は心のうちでこういって細君に頼むのである。しかしその痛切な頼みを決して口へ出していおうとはしなかった。感傷的《センチメンタル》な気分に支配されやすいくせに、彼は決して外表的《デモンストラチーヴ》になれない男であった。
 細君の眼は突然|平生《へいぜい》の我に帰った。そうして夢から覚めた人のように健三を見た。
「貴夫《あなた》?」
 彼女の声は細くかつ長かった。彼女は微笑しかけた。しかしまだ緊張している健三の顔を認めた時、彼女はその笑を止めた。
「あの人はもう帰ったの」
「うん」
 二人はしばらく黙っていた。細君はまた頸《くび》を曲げて、傍《そば》に寐《ね》ている子供の方を見た。
「能く寐ているのね」
 子供は一つ床の中に小さな枕を並べてすやすや寐ていた。
 健三は細君の額の上に自分の右の手を載せた。
「水で頭でも冷して遣《や》ろうか」
「いいえ、もう好《よ》ござんす」
「大丈夫かい」
「ええ」
「本当に大丈夫かい」
「ええ。貴夫ももう御休みなさい」
「己はまだ寐る訳に行かないよ」
 健三はもう一遍書斎へ入って静かな夜《よ》を一人|更《ふ》かさなければならなかった。

     五十一

 彼の眼が冴《さ》えている割に彼の頭は澄み渡らなかった。彼は思索の綱を中断された人のように、考察の進路を遮ぎる霧の中で苦しんだ。
 彼は明日《あした》の朝多くの人より一段高い所に立たなければならない憐《あわ》れな自分の姿を想い見た。その憐れな自分の顔を熱心に見詰めたり、または不得意な自分のいう事を真面目《まじめ》に筆記したりする青年に対して済まない気がした。自分の虚栄心や自尊心を傷《きずつ》けるのも、それらを超越する事の出来ない彼には大きな苦痛であった。
「明日《あした》の講義もまた纏《まと》まらないのかしら」
 こう思うと彼は自分の努力が急に厭《いや》になった。愉快に考えの筋道が運んだ時、折々何者にか煽動《せんどう》されて起る、「己《おれ》の頭は悪くない」という自信も己惚《うぬぼれ》も忽《たちま》ち消えてしまった。同時にこの頭の働らきを攪《か》き乱す自分の周囲についての不平も常時《ふだん》よりは高まって来た。
 彼はしまいに投げるように洋筆《ペン》を放り出した。
「もうやめだ。どうでも構わない」
 時計はもう一時過ぎていた。洋燈《ランプ》を消して暗闇《くらやみ》を縁側伝いに廊下へ出ると、突当《つきあた》りの奥の間の障子二枚だけが灯《ひ》に映って明るかった。健三はその一枚を開けて内に入った。
 子供は犬ころのように塊《かた》まって寐《ね》ていた。細君も静かに眼を閉じて仰向《あおむけ》に眠っていた。
 音のしないように気を付けてその傍《そば》に坐《すわ》った彼は、心持|頸《くび》を延ばして、細君の顔を上から覗《のぞ》き込んだ。それからそっと手を彼女の寐顔《ねがお》の上に翳《かざ》した。彼女は口を閉じていた。彼の掌《てのひら》には細君の鼻の穴から出る生暖かい呼息《いき》が微かに感ぜられた。その呼息は規則正しかった。また穏やかだった。
 彼は漸《ようや》く出した手を引いた。するともう一度細君の名を呼んで見なければまだ安心が出来ないという気が彼の胸を衝《つ》いて起った。けれども彼は直《すぐ》その衝動に打勝った。次に彼はまた細君の肩へ手を懸けて、再び彼女を揺《ゆす》り起そうとしたが、それもやめた。
「大丈夫だろう」
 彼は漸く普通の人の断案に帰着する事が出来た。しかし細君の病気に対して神経の鋭敏になっている彼には、それが何人《なんびと》もこういう場合に取らなければならない尋常の手続きのように思われたのである。
 細君の病気には熟睡が一番の薬であった。長時間彼女の傍に坐って、心配そうにその顔を見詰めている健三に何よりも有難いその眠りが、静かに彼女の瞼《まぶた》の上に落ちた時、彼は天から降る甘露をまのあたり見るような気が常にした。しかしその眠りがまた余り長く続き過ぎると、今度は自分の視線から隠された彼女の眼がかえって不安の種になった。ついに睫毛《
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