。
「自分も兄弟だから他《ひと》から見たらどこか似ているのかも知れない」
こう思うと、兄を気の毒がるのは、つまり自分を気の毒がるのと同じ事にもなった。
「姉さんはもう好《い》いんですか」
問題を変えた彼は、姉の病気について経過を訊《たず》ねた。
「ああ。どうも喘息《ぜんそく》ってものは不思議だねえ。あんなに苦しんでいても直《じき》癒《なお》るんだから」
「もう話が出来ますか」
「出来るどころか、なかなか能《よ》く喋舌《しゃべ》ってね。例の調子で。――姉さんの考じゃ、島田は御縫《おぬい》さんの所へ行って、智慧《ちえ》を付けられて来たんだろうっていうんだがね」
「まさか。それよりあの男だからあんな非常識な事をいって来るのだと解釈する方が適当でしょう」
「そう」
兄は考えていた。健三は馬鹿らしいという顔付をした。
「でなければね。きっと年を取って皆なから邪魔にされるんだろうって」
健三はまだ黙っていた。
「何しろ淋《さむ》しいには違ないんだね。それもあいつの事だから、人情で淋しいんじゃない、慾《よく》で淋しいんだ」
兄はお縫さんの所から毎月彼女の母の方へ手宛《てあて》が届く事をどうしてか知っていた。
「何でも金鵄勲章《きんしくんしょう》の年金か何かを御藤《おふじ》さんが貰《もら》ってるんだとさ。だから島田もどこからか貰わなくっちゃ淋しくって堪らなくなったんだろうよ。何《なん》しろあの位|慾張《よくば》ってるんだから」
健三は慾で淋しがってる人に対して大した同情も起し得なかった。
三十八
事件のない日がまた少し続いた。事件のない日は、彼に取って沈黙の日に過ぎなかった。
彼はその間に時々己《おの》れの追憶を辿《たど》るべく余儀なくされた。自分の兄を気の毒がりつつも、彼は何時の間にか、その兄と同じく過去の人となった。
彼は自分の生命を両断しようと試みた。すると綺麗《きれい》に切り棄《す》てられべきはずの過去が、かえって自分を追掛《おっか》けて来た。彼の眼は行手を望んだ。しかし彼の足は後《あと》へ歩きがちであった。
そうしてその行き詰りには、大きな四角な家が建っていた。家には幅の広い階子段《はしごだん》のついた二階があった。その二階の上も下も、健三の眼には同じように見えた。廊下で囲まれた中庭もまた真四角《まっしかく》であった。
不思議な事に、その広い宅《うち》には人が誰も住んでいなかった。それを淋《さみ》しいとも思わずにいられるほどの幼ない彼には、まだ家というものの経験と理解が欠けていた。
彼はいくつとなく続いている部屋だの、遠くまで真直《まっすぐ》に見える廊下だのを、あたかも天井の付いた町のように考えた。そうして人の通らない往来を一人で歩く気でそこいら中|馳《か》け廻った。
彼は時々表二階《おもてにかい》へ上《あが》って、細い格子《こうし》の間から下を見下した。鈴を鳴らしたり、腹掛《はらがけ》を掛けたりした馬が何匹も続いて彼の眼の前を過ぎた。路《みち》を隔てた真ん向うには大きな唐金《からかね》の仏様があった。その仏様は胡坐《あぐら》をかいて蓮台《れんだい》の上に坐《すわ》っていた。太い錫杖《しゃくじょう》を担いでいた、それから頭に笠《かさ》を被《かぶ》っていた。
健三は時々薄暗い土間《どま》へ下りて、其所《そこ》からすぐ向側《むこうがわ》の石段を下りるために、馬の通る往来を横切った。彼はこうしてよく仏様へ攀《よ》じ上《のぼ》った。着物の襞《ひだ》へ足を掛けたり、錫杖の柄《え》へ捉《つら》まったりして、後《うしろ》から肩に手が届くか、または笠に自分の頭が触れると、その先はもうどうする事も出来ずにまた下りて来た。
彼はまたこの四角な家と唐金の仏様の近所にある赤い門の家を覚えていた。赤い門の家は狭い往来から細い小路《こうじ》を二十間も折れ曲って這入《はい》った突き当りにあった。その奥は一面の高藪《たかやぶ》で蔽《おお》われていた。
この狭い往来を突き当って左へ曲ると長い下り坂があった。健三の記憶の中に出てくるその坂は、不規則な石段で下から上まで畳み上げられていた。古くなって石の位置が動いたためか、段の方々には凸凹《でこぼこ》があった。石と石の罅隙《すきま》からは青草が風に靡《なび》いた。それでも其所は人の通行する路に違なかった。彼は草履《ぞうり》穿《ばき》のままで、何度かその高い石段を上《のぼ》ったり下《さが》ったりした。
坂を下り尽すとまた坂があって、小高い行手に杉の木立《こだち》が蒼黒《あおぐろ》く見えた。丁度その坂と坂の間の、谷になった窪地《くぼち》の左側に、また一軒の萱葺《かやぶき》があった。家は表から引込《ひっこ》んでいる上に、少し右側の方へ片寄っていたが、往来に面した一部分には掛茶屋《
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