。それがため我《が》の強い健三の、兄に対する不平が、罪もない義姉《あね》の方にまで影響した。彼は教育も身分もない人を自分の姉と呼ぶのは厭《いや》だと主張して、気の弱い兄を苦しめた。
「なんて捌《さば》けない人だろう」
 陰で批評の口に上るこうした言葉は、彼を反省させるよりもかえって頑固《かたくな》にした。習俗《コンヴェンション》を重んずるために学問をしたような悪い結果に陥って自ら知らなかった彼には、とかく自分の不見識を認めて見識と誇りたがる弊《へい》があった。彼は慚愧《ざんき》の眼をもって当時の自分を回顧した。
「送籍願が紛れ込んでいるなら、それを御返しするから、持って行ったら好《い》いでしょう」
「いいえ写しだから、僕も要らないんだ」
 兄は紅白の糸に手も触れなかった。健三はふとその日附が知りたくなった。
「一体何時頃でしたかね。それを区役所へ出したのは」
「もう古い事さ」
 兄はこれだけいったぎりであった。その唇には微笑の影が差した。最初も二返目も失敗《しくじ》って、最後にやっと自分の気に入った女と一所になった昔を忘れるほど、彼は耄碌《もうろく》していなかった。同時にそれを口へ出すほど若くもなかった。
「御幾年《おいくつ》でしたかね」と細君が訊《き》いた。
「御由ですか。御由は御住《おすみ》さんと一つ違ですよ」
「まだ御若いのね」
 兄はそれには何とも答えずに、先刻から膝《ひざ》の上に置いた書類の帯を急に解き始めた。
「まだこんなものが這入《はい》っていたよ。これも君にゃ関係のないものだ。さっき見て僕もちょいと驚ろいたが、こら」
 彼はごたごたした故紙の中から、何の雑作もなく一枚の書付を取り出した。それは喜代子《きよこ》という彼の長女の出産届の下書であった。「右者《みぎは》本月《ほんげつ》二十三日午前十一時五十分|出生《しゅっしょう》致し候《そろ》」という文句の、「本月二十三日」だけに棒が引懸けて消してある上に、虫の食った不規則な線が筋違《すじかい》に入っていた。
「これも御父《おとっ》さんの手蹟《て》だ。ねえ」
 彼はその一枚の反故《ほご》を大事らしく健三の方へ向け直して見せた。
「御覧、虫が食ってるよ。尤《もっと》もそのはずだね。出産届ばかりじゃない、もう死亡届まで出ているんだから」
 結核で死んだその子の生年月を、兄は口のうちで静かに読んでいた。

     三十七

 兄は過去の人であった。華美《はなやか》な前途はもう彼の前に横《よこた》わっていなかった。何かに付けて後《うしろ》を振り返りがちな彼と対坐《たいざ》している健三は、自分の進んで行くべき生活の方向から逆に引き戻されるような気がした。
「淋《さむ》しいな」
 健三は兄の道伴《みちづれ》になるには余りに未来の希望を多く持ち過ぎた。そのくせ現在の彼もかなりに淋《さむ》しいものに違なかった。その現在から順に推した未来の、当然淋しかるべき事も彼にはよく解っていた。
 兄はこの間の相談通り島田の要求を断った旨を健三に話した。しかしどんな手続きでそれを断ったのか、また先方がそれに対してどんな挨拶《あいさつ》をしたのか、そういう細かい点になると、全く要領を得た返事をしなかった。
「何しろ比田《ひだ》からそういって来たんだから慥《たしか》だろう」
 その比田が島田に会いに行って話を付けたとも、または手紙で会見の始末を知らせて遣《や》ったとも、健三には判明《わか》らなかった。
「多分行ったんだろうと思うがね。それともあの人の事だから、手紙だけで済ましてしまったのか。其所《そこ》はつい聴いて来るのを忘れたよ。尤《もっと》もあの後《ご》一|返《ぺん》姉さんの見舞かたがた行った時にゃ、比田が相変らず留守だったので、つい会う事が出来なかったのさ。しかしその時姉さんの話じゃ、何でも忙がしいんで、まだそのままにしてあるようだっていってたがね。あの男も随分無責任だから、ことによると行かないのかも知れないよ」
 健三の知っている比田も無責任の男に相違なかった。その代り頼むと何でも引き受ける性質《たち》であった。ただ他《ひと》から頭を下げて頼まれるのが嬉《うれ》しくって物を受合いたがる彼は、頼み方が気に入らないと容易に動かなかった。
「しかしこんだの事なんざあ、島田がじかに比田の所へ持ち込んだんだからねえ」
 兄は暗《あん》に比田自身が先方へ出向いて話し合を付けなければ義理の悪いような事をいった。そのくせ彼はこんな場合に決して自分で懸合事《かけあいごと》などに出掛ける人ではなかった。少し気を遣《つか》わなければならない面倒が起ると必ず顔を背けた。そうして事情の許す限り凝《じっ》と辛防《しんぼう》して独り苦しんだ。健三にはこの矛盾が腹立たしくも可笑《おか》しくもない代りに何となく気の毒に見えた
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