りに暇があったら、もしかすると寄るかも知れないから、帰ったら待ってるようにいってくれって、いい置いていらっしゃいました」
「何の用なのかね」
「やっぱりあの人の事なんだそうです」
兄は島田の事で来たのであった。
三十一
細君は手に持った書付《かきつけ》の束を健三の前に出した。
「これを貴夫《あなた》に上げてくれと仰《おっ》しゃいました」
健三は怪訝《けげん》な顔をしてそれを受取った。
「何だい」
「みんなあの人に関係した書類なんだそうです。健三に見せたら参考になるだろうと思って、用箪笥《ようだんす》の抽匣《ひきだし》の中にしまって置いたのを、今日《きょう》出して持って来たって仰《おっし》ゃいました」
「そんな書類があったのかしら」
彼は細君から受取った一括《ひとくく》りの書付を手に載せたまま、ぼんやり時代の付いた紙の色を眺めた。それから何も意味なしに、裏表を引繰返して見た。書類は厚さにしてほぼ二|寸《すん》もあったが、風の通らない湿気《しっけ》た所に長い間放り込んであったせいか、虫に食われた一筋の痕《あと》が偶然健三の眼を懐古的にした。彼はその不規則な筋を指の先でざらざら撫《な》でて見た。けれども今更|鄭寧《ていねい》に絡《から》げたかんじん撚《より》の結び目を解《ほど》いて、一々中を検《あら》ためる気も起らなかった。
「開けて見たって何が出て来るものか」
彼の心はこの一句でよく代表されていた。
「御父さまが後々《のちのち》のためにちゃんと一纏《ひとまと》めにして取って御置《おおき》になったんですって」
「そうか」
健三は自分の父の分別と理解力に対して大した尊敬を払っていなかった。
「おやじの事だからきっと何でもかんでも取って置いたんだろう」
「しかしそれもみんな貴夫に対する御親切からなんでしょう。あんな奴だから己《おれ》のいなくなった後《のち》に、どんな事をいって来ないとも限らない、その時にはこれが役に立つって、わざわざ一纏めにして、御兄《おあにい》さんに御渡になったんだそうですよ」
「そうかね、己は知らない」
健三の父は中気で死んだ。その父のまだ達者でいるずっと前から、彼はもう東京にいなかった。彼は親の死目《しにめ》にさえ会わなかった。こんな書付が自分の眼に触れないで、長い間兄の手元に保管されていたのも、別段の不思議ではなかった。
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