ね、あなた」
 姉はこうして三日も四日も不眠絶食の姿で衰ろえて行ったあと、また活作用の弾力で、じりじり元へ戻るのを、年来の習慣としていた。それを知らない健三ではなかったが、目前《まのあたり》この猛烈な咳嗽《せき》と消え入るような呼息遣《いきづかい》とを見ていると、病気に罹《かか》った当人よりも自分の方がかえって不安で堪らなくなった。
「口を利こうとすると咳嗽を誘い出すのでしょう。静かにしていらっしゃい。私《わたし》はあっちへ行くから」
 発作の一仕切収まった時、健三はこういって、またもとの座敷へ帰った。

     二十五

 比田は平気な顔をして本を読んでいた。「いえなにまた例の持病ですから」といって、健三の慰問にはまるで取り合わなかった。同じ事を年に何度となく繰り返して行くうちに、自然《じねん》と末枯《すが》れて来る気の毒な女房の姿は、この男にとって毫《ごう》も感傷の種にならないように見えた。実際彼は三十年近くも同棲《どうせい》して来た彼の妻に、ただの一つ優しい言葉を掛けた例《ためし》のない男であった。
 健三の這入《はい》って来るのを見た彼は、すぐ読み懸けの本を伏せて、鉄縁《てつぶち》の眼鏡《めがね》を外した。
「今ちょっと貴方《あなた》が茶の間へ行っていらしった間に、下《くだ》らないものを読み出したんです」
 比田と読書《とくしょ》――これはまた極めて似つかわしくない取合わせであった。
「何ですか、それは」
「なに健ちゃんなんぞの読むもんじゃありません、古いもんで」
 比田は笑いながら、机の上に伏せた本を取って健三に渡した。それが意外にも『常山紀談《じょうざんきだん》』だったので健三は少し驚ろいた。それにしても自分の細君が今にも絶息しそうな勢で咳《せ》き込んでいるのを、まるで余所事《よそごと》のように聴いて、こんなものを平気で読んでいられるところが、如何《いか》にも能《よ》くこの男の性質をあらわしていた。
「私《わたし》ゃ旧弊だからこういう古い講談物が好きでしてね」
 彼は『常山紀談』を普通の講談物と思っているらしかった。しかしそれを書いた湯浅常山《ゆあさじょうざん》を講釈師と間違えるほどでもなかった。
「やッぱり学者なんでしょうね、その男は。曲亭馬琴《きょくていばきん》とどっちでしょう。私ゃ馬琴の『八犬伝《はっけんでん》』も持っているんだが」
 なるほど彼
前へ 次へ
全172ページ中40ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング