うしたんでしょう」
「まるで判明《わか》らないね。相談でもなかろうし。こっちから相談を持ち懸けた事なんかまるでないんだから」
「みんなで交際《つきあ》っちゃいけないって忠告でもなさるんじゃなくって。御兄《おあにい》さんもいらっしゃると書いてあるでしょう、其所《そこ》に」
 端書には細君のいった通りの事がちゃんと書いてあった。
 兄の名前を見た時、健三の頭にふとまた御縫さんの影が差した。島田が彼とこの女を一所にして、後まで両家の関係をつなごうとした如く、この女の生母はまた彼の兄と自分の娘とを夫婦にしたいような希望を有《も》っていたらしかったのである。
「健ちゃんの宅《うち》とこんな間柄にならないとね。あたしも始終健ちゃんの家《うち》へ行かれるんだけれども」
 御藤さんが健三にこんな事をいったのも、顧りみれば古い昔であった。
「だって御縫さんが今|嫁《かたづ》いてる先は元からの許嫁《いいなずけ》なんでしょう」
「許嫁でも場合によったら断る気だったんだろうよ」
「一体御縫さんはどっちへ行きたかったんでしょう」
「そんな事が判明《わか》るもんか」
「じゃ御兄《おあにい》さんの方はどうなの」
「それも判明らんさ」
 健三の子供の時分の記憶の中には、細君の問に応ぜられるような人情がかった材料が一つもなかった。

     二十四

 健三はやがて返事の端書を書いて承知の旨を答えた。そうして指定の日が来た時、約束通りまた津《つ》の守坂《かみざか》へ出掛けた。
 彼は時間に対して頗《すこ》ぶる正確な男であった。一面において愚直に近い彼の性格は、一面においてかえって彼を神経的にした。彼は途中で二度ほど時計を出して見た。実際今の彼は起きると寐《ね》るまで、始終時間に追い懸けられているようなものであった。
 彼は途々《みちみち》自分の仕事について考えた。その仕事は決して自分の思い通りに進行していなかった。一歩目的へ近付くと、目的はまた一歩彼から遠ざかって行った。
 彼はまた彼の細君の事を考えた。その当時強烈であった彼女の歇私的里《ヒステリー》は、自然と軽くなった今でも、彼の胸になお暗い不安の影を投げてやまなかった。彼はまたその細君の里の事を考えた。経済上の圧迫が家庭を襲おうとしているらしい気配が、船に乗った時の鈍い動揺を彼の精神に与える種となった。
 彼はまた自分の姉と兄と、それから島田
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