いきらい》だった。それは彼の不幸な過去を遠くから呼び起す媒介《なかだち》となるからであった。
幸い彼の目下の状態はそんな事に屈托《くったく》している余裕を彼に与えなかった。彼は家《うち》へ帰って衣服を着換えると、すぐ自分の書斎へ這入《はい》った。彼は始終その六畳敷の狭い畳の上に自分のする事が山のように積んであるような気持でいるのである。けれども実際からいうと、仕事をするよりも、しなければならないという刺戟《しげき》の方が、遥かに強く彼を支配していた。自然彼はいらいらしなければならなかった。
彼が遠い所から持って来た書物の箱をこの六畳の中で開けた時、彼は山のような洋書の裡《うち》に胡坐《あぐら》をかいて、一週間も二週間も暮らしていた。そうして何でも手に触れるものを片端《かたはし》から取り上げては二、三|頁《ページ》ずつ読んだ。それがため肝心の書斎の整理は何時まで経っても片付かなかった。しまいにこの体《てい》たらくを見るに見かねた或《ある》友人が来て、順序にも冊数にも頓着《とんじゃく》なく、あるだけの書物をさっさと書棚の上に並べてしまった。彼を知っている多数の人は彼を神経衰弱だと評した。彼自身はそれを自分の性質だと信じていた。
三
健三は実際その日その日の仕事に追われていた。家《うち》へ帰ってからも気楽に使える時間は少しもなかった。その上彼は自分の読みたいものを読んだり、書きたい事を書いたり、考えたい問題を考えたりしたかった。それで彼の心は殆《ほと》んど余裕というものを知らなかった。彼は始終机の前にこびり着いていた。
娯楽の場所へも滅多に足を踏み込めない位忙がしがっている彼が、ある時友達から謡《うたい》の稽古《けいこ》を勧められて、体《てい》よくそれを断わったが、彼は心のうちで、他人《ひと》にはどうしてそんな暇があるのだろうと驚ろいた。そうして自分の時間に対する態度が、あたかも守銭奴のそれに似通っている事には、まるで気がつかなかった。
自然の勢い彼は社交を避けなければならなかった。人間をも避けなければならなかった。彼の頭と活字との交渉が複雑になればなるほど、人としての彼は孤独に陥らなければならなかった。彼は朧気《おぼろげ》にその淋《さび》しさを感ずる場合さえあった。けれども一方ではまた心の底に異様の熱塊があるという自信を持っていた。だから索寞《さ
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