ん》だの烟草盆を片付け始めた細君は、しまいに黙って坐っている彼の前に立った。
「あなたまだ其処《そこ》に坐っていらっしゃるんですか」
「いやもう立っても好い」
健三はすぐ立上《たちあが》ろうとした。
「あの人たちはまた来るんでしょうか」
「来るかも知れない」
彼はこう言い放ったまま、また書斎へ入った。一しきり箒で座敷を掃く音が聞えた。それが済むと、菓子折を奪《と》り合う子供の声がした。凡《すべ》てがやがて静《しずか》になったと思う頃、黄昏《たそがれ》の空からまた雨が落ちて来た。健三は買おう買おうと思いながら、ついまだ買わずにいるオヴァーシューの事を思い出した。
十八
雨の降る日が幾日《いくか》も続いた。それがからりと晴れた時、染付けられたような空から深い輝きが大地の上に落ちた。毎日|欝陶《うっとう》しい思いをして、縫針《ぬいはり》にばかり気をとられていた細君は、縁鼻《えんばな》へ出てこの蒼《あお》い空を見上げた。それから急に箪笥《たんす》の抽斗《ひきだし》を開けた。
彼女が服装を改ためて夫の顔を覗《のぞ》きに来た時、健三は頬杖《ほおづえ》を突いたまま盆槍《ぼんやり》汚ない庭を眺めていた。
「あなた何を考えていらっしゃるの」
健三はちょっと振り返って細君の余所行姿《よそゆきすがた》を見た。その刹那《せつな》に爛熟《らんじゅく》した彼の眼はふとした新らし味を自分の妻の上に見出した。
「どこかへ行くのかい」
「ええ」
細君の答は彼に取って余りに簡潔過ぎた。彼はまたもとの佗《わ》びしい我に帰った。
「子供は」
「子供も連れて行きます。置いて行くと八釜《やかま》しくって御蒼蠅《おうるさ》いでしょうから」
その日曜の午後を健三は独り静かに暮らした。
細君の帰って来たのは、彼が夕飯《ゆうめし》を済ましてまた書斎へ引き取った後《あと》なので、もう灯《あかり》が点《つ》いてから一、二時間経っていた。
「ただ今」
遅くなりましたとも何ともいわない彼女の無愛嬌《ぶあいきょう》が、彼には気に入らなかった。彼はちょっと振り向いただけで口を利かなかった。するとそれがまた細君の心に暗い影を投げる媒介《なかだち》となった。細君もそのまま立って茶の間の方へ行ってしまった。
話をする機会はそれぎり二人の間に絶えた。彼らは顔さえ見れば自然何かいいたくなるような仲の好《い
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