なって、彼の頭のどこかに入っていたのである。
 細君は彼のために説明した。
「三十年|近《ぢか》くにもなる古い事じゃありませんか。向うだって今となりゃ少しは遠慮があるでしょう。それに大抵の人はもう忘れてしまいまさあね。それから人間の性質だって長い間には少しずつ変って行きますからね」
 遠慮、忘却、性質の変化、それらのものを前に並べて考えて見ても、健三には少しも合点《がてん》が行かなかった。
「そんな淡泊《あっさり》した女じゃない」
 彼は腹の中でこういわなければどうしても承知が出来なかった。

     六十五

 御常を知らない細君はかえって夫の執拗《しつおう》を笑った。
「それが貴方《あなた》の癖だから仕方がない」
 平生《へいぜい》彼女の眼に映る健三の一部分はたしかにこうなのであった。ことに彼と自分の生家《さと》との関係について、夫のこの悪い癖《へき》が著るしく出ているように彼女は思っていた。
「己《おれ》が執拗なのじゃない、あの女が執拗なのだ。あの女と交際《つきあ》った事のない御前には、己の批評の正しさ加減が解らないからそんなあべこべ[#「あべこべ」に傍点]をいうのだ」
「だって現に貴夫《あなた》の考えていた女とはまるで違った人になって貴夫の前へ出て来た以上は、貴夫の方で昔の考えを取り消すのが当然じゃありませんか」
「本当に違った人になったのなら何時でも取り消すが、そうじゃないんだ。違ったのは上部《うわべ》だけで腹の中は故《もと》の通りなんだ」
「それがどうして分るの。新らしい材料も何にもないのに」
「御前に分らないでも己にはちゃんと分ってるよ」
「随分独断的ね、貴夫も」
「批評が中《あた》ってさえいれば独断的で一向|差支《さしつかえ》ないものだ」
「しかしもし中っていなければ迷惑する人が大分《だいぶ》出て来るでしょう。あの御婆《おばあ》さんは私《わたくし》と関係のない人だから、どうでも構いませんけれども」
 健三には細君の言葉が何を意味しているのか能《よ》く解った。しかし細君はそれ以上何もいわなかった。腹の中で自分の父母兄弟を弁護している彼女は、表向《おもてむき》夫と遣《や》り合って行ける所まで行く気はなかった。彼女は理智に富んだ性質《たち》ではなかった。
「面倒臭《めんどくさ》い」
 少し込み入った議論の筋道を辿《たど》らなければならなくなると、彼女はき
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