昔健三に向って、自分の夫を評するときに、こんな言葉を使った。世の中をまだ知らない健三にもその真実でない事はよく解っていた。ただ自分の手前、嘘《うそ》と承知しながら、夫の品性を取り繕うのだろうと善意に解釈した彼は、その時御藤さんに向って何にもいわなかった。しかし今考えて見ると、彼女の批評にはもう少し慥《たしか》な根底があるらしく思えた。
「必竟《ひっきょう》大きな損に気のつかない所が正直なんだろう」
 健三はただ金銭上の慾《よく》を満たそうとして、その慾に伴なわない程度の幼稚な頭脳を精一杯に働らかせている老人をむしろ憐れに思った。そうして凹《くぼ》んだ眼を今|擦《す》り硝子《ガラス》の蓋の傍《そば》へ寄せて、研究でもする時のように、暗い灯を見詰めている彼を気の毒な人として眺めた。
「彼はこうして老いた」
 島田の一生を煎《せん》じ詰めたような一句を眼の前に味わった健三は、自分は果してどうして老ゆるのだろうかと考えた。彼は神という言葉が嫌《きらい》であった。しかしその時の彼の心にはたしかに神という言葉が出た。そうして、もしその神が神の眼で自分の一生を通して見たならば、この強慾《ごうよく》な老人の一生と大した変りはないかも知れないという気が強くした。
 その時島田は洋燈の螺旋《ねじ》を急に廻したと見えて、細長い火屋の中が、赤い火で一杯になった。それに驚ろいた彼は、また螺旋を逆に廻し過ぎたらしく、今度はただでさえ暗い灯火《あかり》をなおの事暗くした。
「どうもどこか調子が狂ってますね」
 健三は手を敲《たた》いて下女に新しい洋燈を持って来さした。

     四十九

 その晩の島田はこの前来た時と態度の上において何の異なる所もなかった。応対にはどこまでも健三を独立した人と認めるような言葉ばかり使った。
 しかし彼はもう先達《せんだっ》ての掛物についてはまるで忘れているかの如くに見えた。李鴻章《りこうしょう》の李の字も口にしなかった。復籍の事はなお更であった。噫《おくび》にさえ出す様子を見せなかった。
 彼はなるべくただの話をしようとした。しかし二人に共通した興味のある問題は、どこをどう探しても落ちているはずがなかった。彼のいう事の大部分は、健三に取って全くの無意味から余り遠く隔《へだた》っているとも思えなかった。
 健三は退屈した。しかしその退屈のうちには一種の注意が徹《
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