。しかしそれは衣食住に関する物質的の問題に過ぎなかった。従って青年の答には彼の思わくと多少|喰《く》い違った点があった。
「いや君らは僕のように過去に煩らわされないから仕合せだというのさ」
 青年は解しがたいという顔をした。
「あなただって些《ちっ》とも過去に煩らわされているようには見えませんよ。やっぱり己《おれ》の世界はこれからだという所があるようですね」
 今度は健三の方が苦笑する番になった。彼はその青年に仏蘭西《フランス》のある学者が唱え出した記憶に関する新説を話した。
 人が溺《おぼ》れかかったり、または絶壁から落《おち》ようとする間際に、よく自分の過去全体を一瞬間の記憶として、その頭に描き出す事があるという事実に、この哲学者は一種の解釈を下したのである。
「人間は平生《へいぜい》彼らの未来ばかり望んで生きているのに、その未来が咄嗟《とっさ》に起ったある危険のために突然|塞《ふさ》がれて、もう己は駄目だと事が極《きま》ると、急に眼を転じて過去を振り向くから、そこで凡《すべ》ての過去の経験が一度に意識に上《のぼ》るのだというんだね。その説によると」
 青年は健三の紹介を面白そうに聴いた。けれども事状を一向知らない彼は、それを健三の身の上に引き直して見る事が出来なかった。健三も一刹那《いっせつな》にわが全部の過去を思い出すような危険な境遇に置かれたものとして今の自分を考えるほどの馬鹿でもなかった。

     四十六

 健三の心を不愉快な過去に捲《ま》き込む端緒《いとくち》になった島田は、それから五、六日ほどして、ついにまた彼の座敷にあらわれた。
 その時健三の眼に映じたこの老人は正しく過去の幽霊であった。また現在の人間でもあった。それから薄暗い未来の影にも相違なかった。
「どこまでこの影が己《おれ》の身体《からだ》に付いて回るだろう」
 健三の胸は好奇心の刺戟《しげき》に促されるよりもむしろ不安の漣※[#「さんずい+猗」、第3水準1−87−6]《さざなみ》に揺れた。
「この間|比田《ひだ》の所をちょっと訪ねて見ました」
 島田の言葉遣はこの前と同じように鄭重《ていちょう》であった。しかし彼が何で比田の家へ足を運んだのか、その点になると、彼は全く知らん顔をして澄ましていた。彼の口ぶりはまるで無沙汰《ぶさた》見舞かたがたそっちへ用のあったついでに立ち寄った人の如
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