それが貴夫の八ツの時なのね。それから貴夫は御自分の宅《うち》へ御帰りになった訳ね」
「しかし籍を返さないんだ」
「あの人が?」
 細君はまたその書付を取り上げた。読めない所はそのままにして置いて、読める所だけ眼を通しても、自分のまだ知らない事実が出て来るだろうという興味が、少なからず彼女の好奇心を唆《そそ》った。
 書付のしまいの方には、島田が健三の戸籍を元通りにして置いて実家へ返さないのみならず、いつの間にか戸主に改めた彼の印形《いんぎょう》を濫用《らんよう》して金を借り散らした例などが挙げてあった。
 いよいよ手を切る時に養育料として島田に渡した金の証文も出て来た。それには、しかる上は健三離縁本籍と引替に当金――円御渡し被下《くだされ》、残金――円は毎月《まいげつ》三十日限り月賦にて御差入《おさしいれ》のつもり御対談|云々《うんぬん》と長たらしく書いてあった。
「凡《すべ》て変梃《へんてこ》な文句ばかりだね」
「親類取扱人|比田寅八《ひだとらはち》って下に印が押してあるから、大方比田さんでも書いたんでしょう」
 健三はついこの間会った比田の万事に心得顔な様子と、この証文の文句とを引き比べて見た。

     三十三

 葬式の帰りに寄るかも知れないといった兄は遂に顔を見せなかった。
「あんまり遅くなったから、すぐ御帰りになったんでしょう」
 健三にはその方が便宜であった。彼の仕事は前の日か前の晩を潰《つぶ》して調べたり考えたりしなければ義務を果す事の出来ない性質のものであった。従って必要な時間を他《ひと》に食い削られるのは、彼に取って甚しい苦痛になった。
 彼は兄の置いて行った書類をまた一纏《ひとまと》めにして、元のかんじん撚《より》で括《くく》ろうとした。彼が指先に力を入れた時、そのかんじん撚はぷつりと切れた。
「あんまり古くなって、弱ったのね」
「まさか」
「だって書付の方は虫が食ってる位ですもの、貴夫《あなた》」
「そういえばそうかも知れない。何しろ抽斗《ひきだし》に投げ込んだなり、今日《こんにち》まで放って置いたんだから。しかし兄貴も能《よ》くまあこんなものを取って置いたものだね。困っちゃ何でも売るくせに」
 細君は健三の顔を見て笑い出した。
「誰も買い手がないでしょう。そんな虫の食った紙なんか」
「だがさ。能《よ》く紙屑籠《かみくずかご》の中へ入れてし
前へ 次へ
全172ページ中53ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング