業線の上のただ一線しか往来しないで済むようになり、また他の線へ移る余裕がなくなるのはつまり吾人の社会的知識が狭く細く切りつめられるので、あたかも自ら好んで不具になると同じ結果だから、大きく云えば現代の文明は完全な人間を日に日に片輪者に打崩《うちくず》しつつ進むのだと評しても差支ないのであります。極《ごく》の野蛮時代で人のお世話には全くならず、自分で身に纏《まと》うものを捜し出し、自分で井戸を掘って水を飲み、また自分で木の実か何かを拾って食って、不自由なく、不足なく、不足があるにしても苦しい顔もせずに我慢をしていれば、それこそ万事人に待つところなき点において、また生活上の知識をいっさい自分に備えたる点において完全な人間と云わなければなりますまい。ところが今の社会では人のお世話にならないで、一人前に暮らしているものはどこをどう尋ねたって一人もない。この意味からして皆不完全なものばかりである。のみならず自分の専門は、日に月に、年には無論のこと、ただ狭く細くなって行きさえすればそれですむのである。ちょうど針《はり》で掘抜《ほりぬき》井戸を作るとでも形容してしかるべき有様になって行くばかりです。何商売を例に取っても説明はできますが、この状態を最もよく証明しているものは専門学者などだろうと思います。昔の学者はすべての知識を自分一人で背負《しょ》って立ったように見えますが、今の学者は自分の研究以外には何も知らない私が前《ぜん》申した意味の不具が揃《そろ》っているのであります。私のような者でも世間ではたまに学者扱にしてくれますが、そうするとやっぱり不具の一人であります。なるほど私などは不具に違ない、どうもすくなくとも普通のことを知らない。区役所へ出す転居届の書き方も分らなければ、地面を売るにはどんな手続をしていいかさえ分らない。綿は綿の木のどんな所をどうして拵《こしら》えるかも解し得ない。玉子豆腐《たまごどうふ》はどうしてできるかこれまた不明である。食うことは知っているが拵える事は全く知らない。その他|味淋《みりん》にしろ、醤油にしろ、なんにしろかにしろすべて知らないことだらけである。知識の上において非常な不具と云わなければなりますまい。けれどもすべてを知らない代りに一カ所か二カ所人より知っていることがある。そうして生活の時間をただその方面にばかり使ったものだから、完全な人間をますます遠ざかって、実に突飛なものになり終《おお》せてしまいました。私ばかりではない、かの博士とか何とか云うものも同様であります。あなた方は博士と云うと諸事万端人間いっさい天地宇宙の事を皆知っているように思うかも知れないが全くその反対で、実は不具の不具の最も不具な発達を遂げたものが博士になるのです。それだから私は博士を断りました。しかしあなた方は――手を叩《たた》いたって駄目です。現に博士という名にごまかされているのだから駄目です。例えば明石《あかし》なら明石に医学博士が開業する、片方に医学士があるとする。そうすると医学博士の方へ行くでしょう。いくら手を叩いたって仕方がない、ごまかされるのです。内情を御話すれば博士の研究の多くは針の先きで井戸を掘るような仕事をするのです。深いことは深い。掘抜きだから深いことは深いが、いかんせん面積が非常に狭い。それを世間ではすべての方面に深い研究を積んだもの、全体の知識が万遍なく行き渡っていると誤解して信用をおきすぎるのです。現に博士論文と云うのを見ると存外細かな題目を捕えて、自分以外には興味もなければ知識もないような事項を穿鑿《せんさく》しているのが大分あるらしく思われます。ところが世間に向ってはただ医学博士、文学博士、法学博士として通っているからあたかも総《すべ》ての知識をもっているかのように解釈される。あれは文部省が悪いのかも知れない。虎列剌《コレラ》病博士とか腸窒扶斯《ちょうチフス》博士とか赤痢《せきり》博士とかもっと判然と領分を明らかにした方が善くはないかと思う。肺病患者が赤痢の論文を出して博士になった医者の所へ行ったって差支《さしつかえ》はないが、その人に博士たる名誉を与えたのは肺病とは没交渉の赤痢であって見れば、単に博士の名で肺病を担《かつ》ぎ込んでは勘違《かんちがい》になるかも知れない。博士の事はそのくらいにしてただ以上をかい撮《つま》んで云うと、吾人は開化の潮流に押し流されて日に日に不具になりつつあるということだけは確かでしょう。それをほかの言葉でいうと自分一人ではとても生きていられない人間になりつつあるのである。自分の専門にしていることにかけては、不具的に非常に深いかも知れぬが、その代り一般的の事物については、大変に知識が欠乏した妙な変人ばかりできつつあるという意味です。
私は職業上己のためとか人のためとか云う言葉から出立してその先へ進むはずのところをツイわき道へそれて職業上の片輪《かたわ》という事を御話しし出したから、ついでにその片輪の所置について一言申上げて、また己のため人のための本論に立ち帰りたい。順序の乱れるのは口に駆《か》られる講演の常として御許しを願います。
そこで世の中では――ことに昔の道徳観や昔堅気《むかしかたぎ》の親の意見やまたは一般世間の信用などから云いますと、あの人は家業に精を出す、感心だと云って賞《ほ》めそやします。いわゆる家業に精を出す感心な人というのは取《とり》も直《なお》さず真黒になって働いている一般的の知識の欠乏した人間に過ぎないのだから面白い。露骨に云えば自ら進んで不具になるような人間を世の中では賞《ほ》めているのです。それはとにかくとして現今のように各自の職業が細く深くなって知識や興味の面積が日に日に狭《せば》められて行くならば、吾人は表面上社会的共同生活を営んでいるとは申しながら、その実|銘々《めいめい》孤立して山の中に立て籠《こも》っていると一般で、隣り合せに居《きょ》を卜《ぼく》していながら心は天涯《てんがい》にかけ離れて暮しているとでも評するよりほかに仕方がない有様に陥《おちい》って来ます。これでは相互を了解する知識も同情も起りようがなく、せっかくかたまって生きていても内部の生活はむしろバラバラで何の連鎖もない。ちょうど乾涸《ひから》びた糒《ほしい》のようなもので一粒《ひとつぶ》一粒に孤立しているのだから根ッから面白くないでしょう。人間の職業が専門的になってまた各々自分の専門に頭を突込んで少しでも外面を見渡す余裕がなくなると当面の事以外は何も分らなくなる。また分らせようという興味も出て来にくい。それで差支《さしつかえ》ないと云えばそれまでであるが、現に家業にはいくら精通してもまたいくら勉強してもそればかりじゃどこか不足な訴が内部から萌《きざ》して来て何となく充分に人間的な心持が味えないのだからやむをえない。したがってこの孤立支離の弊を何とかして矯《た》めなければならなくなる。それを矯める方法を御話しするためにわざわざこの壇上に現われたのではないから詳《くわ》しい事は述べませんが、また述べるにしたところで大体はすでに諸君も御承知の事であるが、まあ物のついでだから一言それに触れておきましょう。すでに個々介立の弊が相互の知識の欠乏と同情の稀薄《きはく》から起ったとすれば、我々は自分の家業商売に逐《お》われて日もまた足らぬ時間しかもたない身分であるにもかかわらず、その乏しい余裕を割《さ》いて一般の人間を広く了解《りょうかい》しまたこれに同情し得る程度に互の温味《あたたかみ》を醸《かも》す法を講じなければならない。それにはこういう公会堂のようなものを作って時々講演者などを聘《へい》して知識上の啓発《けいはつ》をはかるのも便法でありますし、またそう知的の方面ばかりでは窮屈すぎるから、いわゆる社交機関を利用して、互の歓情を※[#「磬」の「石」に代えて「缶」、第4水準2−84−70]《つく》すのも良法でありましょう。時としては方便の道具として酒や女を用いても好いくらいのものでしょう。実業家などがむずかしい相談をするのにかえって見当違《けんとうちがい》の待合などで落合って要領を得ているのも、全く酒色という人間の窮屈を融《と》かし合う機械の具《そなわ》った場所で、その影響の下に、角《かど》の取れた同情のある人間らしい心持で相互に所置ができるからだろうと思います。現に事が纏《まとま》るという実用上の言葉が人間として彼我《ひが》打ち解けた非実用の快感状態から出立しなければならないのでも分りましょう。こういうと私が酒や女をむやみに推薦するようでちょっとおかしいが、私の申上げる主意はたとい弊害の多い酒や女や待合などが交際の機関として上流の人に用いられるのでも、人間は個々別々に孤立して互の融和同情を眼中に置かず、ただ自家専門の職業にのみ腐心してはいられないものだという例に御話したくらいのものであります。本来を云うと私はそういう社交機関よりも、諸君が本業に費やす時間以外の余裕を挙《あ》げて文学書を御読みにならん事を希望するのであります。これは我が田へ水を引くような議論にも見えますが、元来文学上の書物は専門的の述作ではない、多く一般の人間に共通な点について批評なり叙述なり試みた者であるから、職業のいかんにかかわらず、階級のいかんにかかわらず赤裸々《せきらら》の人間を赤裸々に結びつけて、そうしてすべての他の墻壁《しょうへき》を打破する者でありますから、吾人が人間として相互に結びつくためには最も立派でまた最も弊の少ない機関だと思われるのです。少くとも芸妓を上げて酒を飲んだと同等以上の効果がありそうに思われるのであります。あなた方もこういう公会堂へわざわざこの暑いのに集まって、私のような者の言うことを黙って聴くような勇気があるのだから、そういう楽な時間を利用して少し御読みになったらいかがだろうと申したいのです。職業が細かくなりまた忙がしくなる結果我々が不具になるが、それはどうして矯正《きょうせい》するかという問題はまずこのくらいにして、この講演の冒頭に述べた己のためとか人のためとかいう議論に立ち帰ってその約《つづま》りをつけてこの講演を結びたいと思います。
それで前申した己のためにするとか人のためにするとかいう見地からして職業を観察すると、職業というものは要するに人のためにするものだという事に、どうしても根本義を置かなければなりません。人のためにする結果が己のためになるのだから、元はどうしても他人本位である。すでに他人本位であるからには種類の選択分量の多少すべて他を目安《めやす》にして働かなければならない。要するに取捨興廃の権威共に自己の手中にはない事になる。したがって自分が最上と思う製作を世間に勧《すす》めて世間はいっこう顧《かえり》みなかったり自分は心持が好くないので休みたくても世間は平日のごとく要求を恣《ほしいまま》にしたりすべて己を曲げて人に従わなくては商売にはならない。この自己を曲げるという事は成功には大切であるが心理的にははなはだ厭《いや》なものである。就中《なかんずく》最も厭なものはどんな好な道でもある程度以上に強《し》いられてその性質がしだいに嫌悪《けんお》に変化する時にある。ところが職業とか専門とかいうものは前《ぜん》申す通り自分の需用以上その方面に働いてそうしてその自分に不要な部分を挙《あ》げて他の使用に供するのが目的であるから、自己を本位にして云えば当初から不必要でもあり、厭でもある事を強《し》いてやるという意味である。よく人が商売となると何でも厭になるものだと云いますがその厭になる理由は全くこれがためなのです。いやしくも道楽である間は自分に勝手な仕事を自分の適宜な分量でやるのだから面白いに違ないが、その道楽が職業と変化する刹那《せつな》に今まで自己にあった権威が突然他人の手に移るから快楽がたちまち苦痛になるのはやむをえない。打ち明けた御話が己のためにすればこそ好なので人のためにしなければならない義務を括《くく》りつけられればどうしたって面白くは行かないにきまっていま
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