かり眼につくようです。ところがこれは当り前のことで学問の研究の上から世の中の変化とでも云いましょうか、漠然《ばくぜん》たる社会の傾向とでも云いましょうか、必然の勢そういうように割れて細かになって来るのであります。これは何も私の発明した事実でも何でもない、昔から人の言っていることであります。昔の職業というものは大まかで、何でも含んでいる。ちょうど田舎《いなか》の呉服屋みたいに、反物を売っているかと思うと傘を売っておったり油も売るという、何屋だか分らぬ万事いっさいを売る家というようなものであったのが、だんだん専門的に傾いていろいろに分れる末はほとんど想像がつかないところまで細かに延びて行くのが一般の有様と行って差支ないでしょう。
 ところでこの事実をずっと想像に訴えて遠い過去に溯《さかのぼ》ったらどうなるでしょう。あるいは想像でも溯れないかも知れないけれども、この事実の中《うち》に含まれている論理の力で後ろの方へ逆行したらどんなものでしょう。今言う通り昔は商売というものの数が少なかった。職業の数が少なくって、世間の人もそのわずかな商売をもって満足しておったという訳なのだから、あるいは傘《かさ》を買いに行っても傘がない、衣物《きもの》を買いに行っても衣物がないという時代がないとも限らない。私はかつて熊本におりましたが、或る時|灰吹《はいふき》を買いに行ったことがある。ところが灰吹はないと云う。熊本中どこを尋ねても無いかと云ったら無いだろうと云う。じゃ熊本では煙草《たばこ》を喫《の》まないか痰《たん》を吐かないかというと現に煙草を喫んでいる。それでは灰吹はどうするんだと聞くと、裏の藪《やぶ》へ行って竹を伐《き》って来て拵《こしら》えるんだと教えてくれました。裏の藪から伐って来て、青竹の灰吹で間に合わしておけばよいと思っているところでは灰吹は売れない訳である。したがって売っているはずがないのである。そういう風に自分で人の厄介にならずに裏の藪へ行って竹を伐って灰吹を造るごとく、人のお世話にならないで自分の身の囲《まわ》りをなるべく多く足す、また足さなければならない時代があったものでしょう。さてその事実を極端まで辿《たど》って行くと、いっさい万事自分の生活に関した事は衣食住ともいかなる方面にせよ人のお蔭《かげ》を被《こうむ》らないで、自分だけで用を弁じておった時期があり得るという推測になる。人間がたった一人で世の中に存在しているということは、ほとんど想像もできないかも知れないし、またそこまで論理を頼りに推詰めて考える必要もない話ですが、そこまで行かないとちょっと講話にならないから、まあそうしておくのです。すなわち誰のお世話にもならないで人間が存在していたという時代を思い浮べて見る。例えば私がこの着物を自分で織って、この襟《えり》を自分で拵《こしら》えて、総《すべ》て自分だけで用を弁じて、何も人のお世話にならないという時期があったとする。また有ったとしてもよいでしょう。そういう時期が何時かあったらどうするという意味ではないが、まああると仮定して御覧なさい。そうしたらそういう時期こそ本当の独立独行という言葉の適当に使える時期じゃないでしょうか。人から月給を貰う心配もなければ朝起きて人にお早うと言わなければ機嫌《きげん》が悪いという苦労もない。生活上|寸毫《すんごう》も人の厄介にならずに暮して行くのだから平気なものである。人にすくなくとも迷惑をかけないし、また人にいささかの恩義も受けないで済むのだから、これほど都合の好いことはない。そういう人が本当の意味で独立した人間といわなければならないでしょう。実際我々は時勢の必要上そうは行かないようなものの腹の中では人の世話にならないでどこまでも一本立でやって行きたいと思っているのだからつまりはこんな太古の人を一面には理想として生きているのである。けれども事実やむをえない、仕方がないからまず衣物を着る時には呉服屋の厄介になり、お菜《さい》を拵える時には豆腐屋の厄介になる。米も自分で搗《つ》くよりも人の搗いたのを買うということになる。その代りに自分は自分で米を搗き自分で着物を織ると同程度の或る専門的の事を人に向ってしつつあるという訳になる。私はいまだかつて衣物を織ったこともなければ、靴足袋《くつたび》を縫ったこともないけれども、自ら縫わぬ靴足袋、あるいは自ら織らぬ衣物の代りに、新聞へ下らぬ事を書くとか、あるいはこういう所へ出て来てお話をするとかして埋合せをつけているのです。私ばかりじゃない、誰でもそうです。するとこの一歩専門的になるというのはほかの意味でも何でもない、すなわち自分の力に余りある所、すなわち人よりも自分が一段と抽《ぬき》んでている点に向って人よりも仕事を一倍にして、その一倍の報酬に自分に不足した所を人から自分に仕向けて貰って相互の平均を保ちつつ生活を持続するという事に帰着する訳であります。それを極《ごく》むずかしい形式に現わすというと、自分のためにする事はすなわち人のためにすることだという哲理をほのめかしたような文句になる。これでもまだちょっと分らないなら、それをもっと数学的に言い現わしますと、己のためにする仕事の分量は人のためにする仕事の分量と同じであるという方程式が立つのであります。人のためにする分量すなわち己のためにする分量であるから、人のためにする分量が少なければ少ないほど自分のためにはならない結果を生ずるのは自然の理であります。これに反して人のためになる仕事を余計すればするほど、それだけ己のためになるのもまた明かな因縁《いんねん》であります。この関係を最も簡単にかつ明暸《めいりょう》に現わしているのは金ですな。つまり私が月給を拾五円なら拾五円取ると、拾五円|方《がた》人のために尽しているという訳で取りも直さずその拾五円が私の人に対して為し得る仕事の分量を示す符丁《ふちょう》になっています。拾五円方人に対する労力を費す、そうして拾五円現金で入ればすなわちその拾五円は己のためになる拾五円に過ぎない。同じ訳で人のためにも千円の働きができれば、己のために千円使うことができるのだから誠に結構なことで、諸君もなるべく精出《せいだ》して人のためにお働きになればなるほど、自分にもますます贅沢《ぜいたく》のできる余裕を御作りになると変りはないから、なるべく人のために働く分別をなさるが宜しかろうと思う。
 もっとも自分のためになると云ってもためになり方はいろいろある。第一その中《うち》から税などを払わなければならない。税を出して人に月給をやったり、巡査を雇っておいたり、あるいは国務大臣を馬車に乗せてやったりする。もっとも一人じゃアこれだけの事はできませぬ、我々大勢で金を出してやるのですが、畢竟《ひっきょう》ずるにあの税などもやはり自分のために出すのです。国務大臣が馬車や自動車に乗って怪《け》しからんと言ったってそれは野暮の云う事です。我々が税を出して乗らしておいてやるので国務大臣のためじゃない、つまり己のためだと思えば間違はない。だから時々自動車ぐらい借りに行ってもよかろうと思う。税はそのくらいにしてこのほか己のためにするものは衣食住と他の贅沢費になります。それを合算すると、つまり銀行の帳簿のように収入と支出と平均します。すなわち人のためにする仕事の分量は取《と》りも直《なお》さず己のためにする仕事の分量という方程式がちゃんと数字の上に現われて参ります。もっとも吝《けち》で蓄《た》めている奴《やつ》があるかも知れないが、これは例外である。例外であるが蓄めていればそれだけの労力というものを後《あと》へ繰越《くりこ》すのだから、やはり同じ理窟《りくつ》になります。よくあいつは遊んでいて憎《にく》らしいとかまたはごろごろしていて羨《うらや》ましいとか金持の評判をするようですが、そもそも人間は遊んでいて食える訳のものではない。遊んでいるように見えるのは懐《ふところ》にある金が働いてくれているからのことで、その金というものは人のためにする事なしにただ遊んでいてできたものではない。親父《おやじ》が額に汗を出した記念だとかあるいは婆さんの臍繰《へそくり》だとか中には因縁付《いんねんつ》きの悪い金もありましょうけれども、とにかく何らか人のためにした符徴《ふちょう》、人のためにしてやったその報酬というものが、つまり自分の金になって、そうして自分はそのお蔭《かげ》でもって懐手《ふところで》をして遊んでいられるという訳でしょう。職業の性質というものはまあざっとこんなものです。
 そこでネ、人のためにするという意味を間違えてはいけませんよ。人を教育するとか導くとか精神的にまた道義的に働きかけてその人のためになるという事だと解釈されるとちょっと困るのです。人のためにというのは、人の言うがままにとか、欲するがままにといういわゆる卑俗の意味で、もっと手短かに述べれば人の御機嫌《ごきげん》を取ればというくらいの事に過ぎんのです。人にお世辞を使えばと云い変えても差支《さしつかえ》ないくらいのものです。だから御覧なさい。世の中には徳義的に観察するとずいぶん怪《け》しからぬと思うような職業がありましょう。しかもその怪しからぬと思うような職業を渡世《とせい》にしている奴は我々よりはよっぽどえらい生活をしているのがあります。しかし一面から云えば怪しからぬにせよ、道徳問題として見れば不埒《ふらち》にもせよ、事実の上から云えば最も人のためになることをしているから、それがまた最も己のためになって、最も贅沢《ぜいたく》を極《きわ》めていると言わなければならぬのです。道徳問題じゃない、事実問題である。現に芸妓《げいしゃ》というようなものは、私はあまり関係しないからして精《くわ》しいことは知らんけれどもとにかく一流の芸妓とか何とかなるとちょっと指環を買うのでも千円とか五百円という高価なものの中から撰取《よりどり》をして余裕があるように見える。私は今ここにニッケルの時計しか持っておらぬ。高尚な意味で云ったら芸妓よりも私の方が人のためにする事が多くはないだろうかという疑もあるが、どうも芸妓ほど人の気に入らない事もまたたしからしい。つまり芸妓は有徳な人だからああ云う贅沢ができる、いくら学問があっても徳の無い人間、人に好かれない人間というものは、ニッケルの時計ぐらい持って我慢しているよりほか仕方がないという結論に落ちて来る。だから私のいう人のためにするという意味は、一般の人の弱点|嗜好《しこう》に投ずると云う大きな意味で、小さい道徳――道徳は小さくありませぬが、まず事実の一部分に過ぎないのだから小さいと云っても差支《さしつかえ》ないでしょう。そう云う高尚ではあるが偏狭な意味で人のためにするというのではなく、天然の事実そのものを引きくるめて何でもかでも人に歓迎されるという意味の「ためにする」仕事を指したのであります。
 そこで職業上における己のため人のためと云う事は以上のように御記憶を願っておいて、話がまた後戻りをする恐れがあるかも知れないが、前《ぜん》申した通り人文発達の順序として職業が大変割れて細かくなると妙な結果を我々に与えるものだからその結果を一口御話をして、そうして先へ進みたいと思います。私の見るところによると職業の分化|錯綜《さくそう》から我々の受ける影響は種々ありましょうが、そのうちに見逃す事のできない一種妙な者があります。というのはほかでもないが開化の潮流が進めば進むほど、また職業の性質が分れれば分れるほど、我々は片輪《かたわ》な人間になってしまうという妙な現象が起るのであります。言い換えると自分の商売がしだいに専門的に傾《かたむ》いてくる上に、生存競争のために、人一倍の仕事で済んだものが二倍三倍|乃至《ないし》四倍とだんだん速力を早めておいつかなければならないから、その方だけに時間と根気を費しがちであると同時に、お隣りの事や一軒おいたお隣りの事が皆目《かいもく》分らなくなってしまうのであります。こういうように人間が千筋も万筋もある職
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