」と云って、旗を担《かつ》いで往来を歩いて来たのもありました。子供の時分ですからその声を聞くと、ホラ来たと云って逃げたものである。よくよく聞いて見ると鼠取《ねずみと》りの薬を売りに来たのだそうです。鼠のいたずらもので人間のいたずらものではないというのでやっと安心したくらいのものである。そんな妙な商売は近頃とんと無くなりましたが、締括《しめくく》った総体の高から云えば、どうも今日の方が職業というものはよほど多いだろうと思う。単に職業に変化があるばかりでなく、細かくなっている。現に唐物屋《とうぶつや》というものはこの間まで何でも売っていた。襟《えり》とか襟飾りとかあるいはズボン下、靴足袋《くつたび》、傘《かさ》、靴、たいていなものがありました。身体《からだ》へつけるいっさいの舶来品を売っていたと云っても差支《さしつかえ》ない。ところが近頃になるとそれが変ってシャツ屋はシャツ屋の専門ができる、傘屋は傘屋、靴屋は靴屋とちゃんと分れてしまいました。靴足袋屋……これはまだ専門はできないようだが、今にできるだろうと思います。現に日本の足袋屋は専門になっています。十文のをくれと云えば十文のをくれる、十一文のをくれろと云えば十一文のをくれる。私が演説を頼まれて即席に引受けないのは、足袋屋みたいにちょっと出来合いがないからです。どうか十文の講演をやってくれ、あそこは十一文|甲高《こうだか》の講演でなければ困るなどと注文される。そのくらいに私が演説の専門家になっていれば訳はありませんが私の御手際《おてぎわ》はそれほど専門的に発達していない。素人《しろうと》が義理に東京からわざわざ明石辺までやって来るというくらいの話でありますから、なかなかそう旨《うま》くはいきませぬ。足袋屋はさておいて食物屋《たべものや》の方でもチャンとした専門家があります。例えば牛肉も鳥の肉も食わせる所があるかと思うと、牛肉ばかりの家《うち》があるし、また鳥の肉でなければ食わせないという家もある。あるいはそれが一段細かくなって家鴨《あいがも》よりほかに食わせない店もある。しまいには鳥の爪だけ食わせる所とか牛の肝臓だけ料理する家ができるかも知れない。分れて行けばどこまで行くか分りません。こんなに劇《はげ》しい世間だからしまいには大変なことになるだろうと思う。とにかく職業は開化が進むにつれて非常に多くなっていることが驚くばかり眼につくようです。ところがこれは当り前のことで学問の研究の上から世の中の変化とでも云いましょうか、漠然《ばくぜん》たる社会の傾向とでも云いましょうか、必然の勢そういうように割れて細かになって来るのであります。これは何も私の発明した事実でも何でもない、昔から人の言っていることであります。昔の職業というものは大まかで、何でも含んでいる。ちょうど田舎《いなか》の呉服屋みたいに、反物を売っているかと思うと傘を売っておったり油も売るという、何屋だか分らぬ万事いっさいを売る家というようなものであったのが、だんだん専門的に傾いていろいろに分れる末はほとんど想像がつかないところまで細かに延びて行くのが一般の有様と行って差支ないでしょう。
 ところでこの事実をずっと想像に訴えて遠い過去に溯《さかのぼ》ったらどうなるでしょう。あるいは想像でも溯れないかも知れないけれども、この事実の中《うち》に含まれている論理の力で後ろの方へ逆行したらどんなものでしょう。今言う通り昔は商売というものの数が少なかった。職業の数が少なくって、世間の人もそのわずかな商売をもって満足しておったという訳なのだから、あるいは傘《かさ》を買いに行っても傘がない、衣物《きもの》を買いに行っても衣物がないという時代がないとも限らない。私はかつて熊本におりましたが、或る時|灰吹《はいふき》を買いに行ったことがある。ところが灰吹はないと云う。熊本中どこを尋ねても無いかと云ったら無いだろうと云う。じゃ熊本では煙草《たばこ》を喫《の》まないか痰《たん》を吐かないかというと現に煙草を喫んでいる。それでは灰吹はどうするんだと聞くと、裏の藪《やぶ》へ行って竹を伐《き》って来て拵《こしら》えるんだと教えてくれました。裏の藪から伐って来て、青竹の灰吹で間に合わしておけばよいと思っているところでは灰吹は売れない訳である。したがって売っているはずがないのである。そういう風に自分で人の厄介にならずに裏の藪へ行って竹を伐って灰吹を造るごとく、人のお世話にならないで自分の身の囲《まわ》りをなるべく多く足す、また足さなければならない時代があったものでしょう。さてその事実を極端まで辿《たど》って行くと、いっさい万事自分の生活に関した事は衣食住ともいかなる方面にせよ人のお蔭《かげ》を被《こうむ》らないで、自分だけで用を弁じておった時期があり得るという
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