、本来から云うと道楽本位の科学者とか哲学者とかまた芸術家とかいうものはその立場からしてすでに職業の性質を失っていると云わなければならない。実際今の世で彼らは名前には職業として存在するが実質の上ではほとんど職業として認められないほど割に合わない報酬を受けているのでこの辺の消息はよく分るでしょう。現に科学者哲学者などは直接世間と取引しては食って行けないからたいていは政府の保護の下に大学教授とか何とかいう役になってやっと露命をつないでいる。芸術家でも時に容《い》れられず世から顧《かえり》みられないで自然本位を押し通す人はずいぶん惨澹《さんたん》たる境遇に沈淪《ちんりん》しているものが多いのです。御承知の大雅堂《たいがどう》でも今でこそ大した画工であるがその当時|毫《ごう》も世間向の画をかかなかったために生涯《しょうがい》真葛《まくず》が原《はら》の陋居《ろうきょ》に潜《ひそ》んでまるで乞食と同じ一生を送りました。仏蘭西《フランス》のミレーも生きている間は常に物質的の窮乏に苦しめられていました。またこれは個人の例ではないが日本の昔に盛んであった禅僧の修行などと云うものも極端な自然本位の道楽生活であります。彼らは見性《けんしょう》のため究真のためすべてを抛《なげう》って坐禅の工夫《くふう》をします。黙然と坐している事が何で人のためになりましょう。善い意味にも悪い意味にも世間とは没交渉である点から見て彼ら禅僧は立派な道楽ものであります。したがって彼らはその苦行難行に対して世間から何らの物質的報酬を得ていません。麻の法衣を着て麦の飯を食ってあくまで道を求めていました。要するに原理は簡単で、物質的に人のためにする分量が多ければ多いほど物質的に己のためになり、精神的に己のためにすればするほど物質的には己の不為になるのであります。
以上申し上げた科学者哲学者もしくは芸術家の類《たぐい》が職業として優《ゆう》に存在し得るかは疑問として、これは自己本位でなければとうてい成功しないことだけは明かなようであります。なぜなればこれらが人のためにすると己というものは無くなってしまうからであります。ことに芸術家で己の無い芸術家は蝉《せみ》の脱殻《ぬけがら》同然で、ほとんど役に立たない。自分に気の乗った作ができなくてただ人に迎えられたい一心でやる仕事には自己という精神が籠《こも》るはずがない。すべて
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