算すると、つまり銀行の帳簿のように収入と支出と平均します。すなわち人のためにする仕事の分量は取《と》りも直《なお》さず己のためにする仕事の分量という方程式がちゃんと数字の上に現われて参ります。もっとも吝《けち》で蓄《た》めている奴《やつ》があるかも知れないが、これは例外である。例外であるが蓄めていればそれだけの労力というものを後《あと》へ繰越《くりこ》すのだから、やはり同じ理窟《りくつ》になります。よくあいつは遊んでいて憎《にく》らしいとかまたはごろごろしていて羨《うらや》ましいとか金持の評判をするようですが、そもそも人間は遊んでいて食える訳のものではない。遊んでいるように見えるのは懐《ふところ》にある金が働いてくれているからのことで、その金というものは人のためにする事なしにただ遊んでいてできたものではない。親父《おやじ》が額に汗を出した記念だとかあるいは婆さんの臍繰《へそくり》だとか中には因縁付《いんねんつ》きの悪い金もありましょうけれども、とにかく何らか人のためにした符徴《ふちょう》、人のためにしてやったその報酬というものが、つまり自分の金になって、そうして自分はそのお蔭《かげ》でもって懐手《ふところで》をして遊んでいられるという訳でしょう。職業の性質というものはまあざっとこんなものです。
 そこでネ、人のためにするという意味を間違えてはいけませんよ。人を教育するとか導くとか精神的にまた道義的に働きかけてその人のためになるという事だと解釈されるとちょっと困るのです。人のためにというのは、人の言うがままにとか、欲するがままにといういわゆる卑俗の意味で、もっと手短かに述べれば人の御機嫌《ごきげん》を取ればというくらいの事に過ぎんのです。人にお世辞を使えばと云い変えても差支《さしつかえ》ないくらいのものです。だから御覧なさい。世の中には徳義的に観察するとずいぶん怪《け》しからぬと思うような職業がありましょう。しかもその怪しからぬと思うような職業を渡世《とせい》にしている奴は我々よりはよっぽどえらい生活をしているのがあります。しかし一面から云えば怪しからぬにせよ、道徳問題として見れば不埒《ふらち》にもせよ、事実の上から云えば最も人のためになることをしているから、それがまた最も己のためになって、最も贅沢《ぜいたく》を極《きわ》めていると言わなければならぬのです。道徳問題じ
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