て読んだ。そうして大いに感服した。(ある意味から云えば、今でも感服している。ここに余のいわゆるある意味を説明する事のできないのは遺憾《いかん》であるが、作物《さくぶつ》の批評を重《おも》にして書いたものでないからやむをえない。)そこで、手紙を認《したた》めて、いささかながら早稲田から西片町へ向けて賛辞を郵送した。実は脳病が気の毒でならなかったから、こんな余計な事をしたのである。その当時君は文学者をもって自《みずか》ら任じていないなどとは夢にも知らなかったので、同業者同社員たる余の言葉が、少しは君に慰藉《いしゃ》を与えはしまいかという己惚《うぬぼれ》があったんだが、文士たる事を恥ずという君の立場を考えて見ると、これは実際|入《い》らざる差し出た所為《しょい》であったかも知れない。返事には端書《はがき》が一枚来た。その文句は、有難《ありがと》う、いずれ拝顔の上とか何とかあるだけで、すこぶる簡単かつあっさりしていた。ちっとも「其面影」流でないのには驚いた。長谷川君の書に一種の風韻《ふういん》のある事もその時始めて知った。しかしその書体もけっして「其面影」流ではなかった。
それから、ずっと打絶えた。次に逢《あ》ったのは君が露西亜《ロシア》へ行く事がほぼ内定した時のことである。大阪の鳥居君が出て来て、長谷川君と余を呼んで午餐《ごさん》を共にした。所は神田川《かんだがわ》である。旅館に落ち合って、あすこにしよう、ここにしようと評議をしている時に、君はしきりに食い物の話を持ち出した。中華亭とはどう書いたかねと余に聞いた事を覚えている。神田川では、満洲へ旅行した話やら、露西亜人に捕《つら》まって牢《ろう》へぶち込まれた話をしていた。それから、現今の露西亜|文壇《ぶんだん》の趨勢《すうせい》の断えず変っている有様やら、知名の文学者の名やら(その名はたくさんあったが、みんな余の知らないものばかりであった)、日本の小説の売れない事やら、露西亜へ行ったら、日本人の短篇を露語に訳して見たいという希望やら、いろいろ述べた。何しろ三人寝そべって、二三時間暮らしていたのだから、ずいぶんゆっくり話しもできた。最後にダンチェンコのために宴会をやるつもりだから出席してくれろという事と、それから物集《もずめ》の御嬢さんを、自分がいなくなったら托したいという二件を依頼した。それで分かれた。
最後に逢ったのは、出立の数日|前《ぜん》暇乞《いとまごい》に来られた時である。長谷川君が余の家へ足を入れたのはこれが最初であってまた最終である。座敷へ通って、室内を見渡して、何だか伽藍《がらん》のようだねと云った。暇乞のためだから別段の話しも出なかったが、ただ門弟としての物集《もずめ》の御嬢さんと今一人|北国《ほっこく》の人の事を繰り返して頼んで行った。
一日越えて、余が答礼に行った時は、不在で逢《あ》えなかった。見送りにはつい行かなかった。長谷川君とは、それきり逢えない事になってしまった。露都《ろと》在留中ただ一枚の端書《はがき》をくれた事がある。それには、弱い話だがこっちの寒さには敵《かな》わないとあった。余はその端書を見て気の毒のうちにも一種のおかしみを覚えた。まさか死ぬほど寒いとは思わなかったからである。しかし死ぬほど寒かったものと見える。長谷川君はとうとう死んでしまった。長谷川君は余を了解せず、余は長谷川君を了解しないで死んでしまった。生きていても、あれぎりの交際であったかも知れないが、あるいは、もっと親密になる機会が来たかも分らない。余は以上の長谷川君を、長谷川君として記憶するよりほかに仕方のない遠い朋友である。君の托されて行った物集の御嬢さんは時々見える。北国の人に至っては音信《たより》さえない。
底本:「夏目漱石全集10」ちくま文庫、筑摩書房
1988(昭和63)年7月26日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
1971(昭和46)年4月〜1972(昭和47)年1月
入力:柴田卓治
校正:大野晋
1999年5月12日公開
2004年2月27日修正
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