るという事を悟った。しかもその修養のうちには、自制とか克己《こっき》とかいういわゆる漢学者から受け襲《つ》いで、強《し》いて己《おのれ》を矯《た》めた痕迹《こんせき》がないと云う事を発見した。そうしてその幾分は学問の結果|自《おのずか》らここに至ったものと鑑定した。また幾分は学問と反対の方面、すなわち俗に云う苦労をして、野暮《やぼ》を洗い落として、そうして再び野暮に安住しているところから起ったものと判断した。
そのうち、君は池辺君と露西亜《ロシア》の政党談をやり出した。大変興味があると見えて、いつまで立ってもやめない。※[#「女+尾」、第3水準1−15−81]々《びび》数千言と云うとむやみに能弁にしゃべるように聞こえてわるいが、時間から云えば、こんな形容詞でも使わなくってはならなくなるくらい論じていた。その知識の詳密精細《しょうみつせいさい》なる事はまた格別なもので、向って左のどの辺に誰がいて、その反対の側《がわ》に誰の席があるなどと、まるで露西亜へ昨日《きのう》行って見て来たように、例のむずかしい何々スキーなどと云う名前がいくつも出た。しかし不思議にもこの談話は、物知りぶった、また通《つう》がった陋悪《ろうあく》な分子を一点も含んでいなかった。余は固《もと》より政党政治に無頓着《むとんじゃく》な質《たち》であって、今の衆議院の議長は誰だったかねと聞いて友達から笑われたくらいの男だから、露西亜に議会があるかないかさえ知らない。したがってこの談話には何らの興味もなかった。それで、あんまり長いから、談話の途中で失敬して家《うち》へ帰ってしまった。これが余の長谷川君と初対面の時の感想である。
それから、幾日か立って、用が出来て社へ行った。汚《きたな》い階子段《はしごだん》を上がって、編輯局《へんしゅうきょく》の戸を開けて這入《はい》ると、北側の窓際《まどぎわ》に寄せて据《す》えた洋机《テーブル》を囲んで、四五人話しをしているものがある。ほかの人の顔は、戸を開けるや否やすぐ分ったが、たった一人余に背中を向けて椅子に腰をおろして、鼠色《ねずみいろ》の背広を着て、長い胴を椅子の背から食《は》み出《だ》さしていたものは誰だか見当《けんとう》がつかなかった。横へ回って見ると、それが長谷川君であった。その時余は長谷川君に向って、「ちょっと御訪《おたず》ねをしようと思うんだが」と言い出して、まだ句を切らないうちに、君は「いや低気圧《ていきあつ》のある間は来客謝絶だ」と云った。低気圧とは何の事だか、君の平生を知らない余には不得要領《ふとくようりょう》であったけれど、来客謝絶の四字の方が重く響いたので、聞き返しもしなかった。ただ好い加減に頭の悪い事を低気圧と洒落《しゃれ》ているんだろうぐらいに解釈していたが、後《あと》から聞けば実際の低気圧の事で、いやしくも低気圧の去らないうちは、君の頭は始終|懊悩《おうのう》を離れないんだという事が分った。当時余も君の向うを張って来客謝絶の看板を懸《か》けていた。もっともこれは創作の低気圧のためであったけれども、来客謝絶は表向き双方同じ事なんだから、この看板を引き下ろさせるだけの縁故も親しみもない両人は、それきり面談をする機会がなかった。
ところがある日の午後湯に行った。着物を脱いで、流しへ這入ろうとして、ふと向うむきになって洗っている人の横顔を見ると、長谷川君である。余は長谷川さんと声をかけた。それまではまるで気がつかなかった君は、顔を上げて、やあと云った。湯の中ではそれぎりしか口を利《き》かなかった。何でも暑い時分の事と覚えている。余が身体《からだ》を拭《ふ》いて、茣蓙《ござ》の敷いてある縁先で、団扇《うちわ》を使って涼んでいると、やがて長谷川君が上がって来た。まず眼鏡をかけて、余を見つけ出して、向うから話しを始めた。双方とも真赤裸《まっぱだか》のように記憶している。しかし長谷川君の話し方は初対面の折露西亜の政党を論じた時と毫《ごう》も異《こと》なるところなく、呂音《りょおん》で落ちついて、ゆっくりしているものだから、全く赤裸《はだか》と釣り合わない。君は少しも顧慮《こりょ》する気色《けしき》も見えず醇々《じゅんじゅん》として頭の悪い事を説かれた。何でも去年とか一度卒倒して、しばらく田端辺《たばたへん》で休養していたので、今じゃ少しは好いようだとかいう話しであった。「それじゃ、まだ来客謝絶だろう」と冗談《じょうだん》半分に聞いて見たら、「まあ……」とか何とか云う返事であった。「それじゃ、行くのはまあ見合せよう」と云って分かれた。
その秋余は西片町を引き上げて早稲田《わせだ》へ移った。長谷川君と余とはこの引越のためますます縁が遠くなってしまった。その代り君の著作にかかる「其面影《そのおもかげ》」を買って来
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