験を誰が見ても動かすべからざる真にもり立てようとするには、これを客観的に安置する必要が起って参ります。そこで私はこの演説の冒頭に自分の過去の経験も非我の経験と見傚《みな》す事ができると云ってあらかじめ予防線を張っておきました。刻下の感じこそ、我の所有で、また我一人の所有でありますが、回顧した感じは他人のものであると申しました。少なくとも自分に縁故のもっとも近い他人のものとして取り扱う事ができると申しました。愛と云うと一字であります。自分の愛と人の愛と云えば、たとい分量性質が同じでもついに所有者が違って参ります。愛の見当《けんとう》が違います。方角が違います。したがって自己の過去の愛と他人の愛とは等しく非我の経験と見傚し得ます。この点において主観的なる愛そのものを一歩離れて眺める事ができます。ただ困る事は、時により場合により増減があって、変化の度が著るしく眼につくんで、それがため客観的価値が大分下落致します。のみならず悲しい事には、いくら客観的に見る事ができても、客観的に写す事ができない性質のものであります。ある坊さんに、あなたちょっと魂を手の平へ乗せて見せておくれんかと云われて、弱った
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