と纏《まと》めて云えばこの色彩の知識にあると云っても無理ではありません。さてこの両人も出来上った色を経験すると云えば同じ経験をしたに違いない。ただ石版屋の方はこの経験を我から放出して、非我の属性たる色と認め、かつ属性として他の色と区別するに引き易《か》えて、画家は同一経験を、画面より我に向って反射し来《きた》ったる一種の刺激と見傚し、この色がいかに我を冒《おか》すかの点にのみ留意するのであります。だから石版屋の方を客観的態度で主知主義とし、画工の方を主観的態度で主感主義と名《なづ》けてよかろうと思います。
 まずこれで客観、主観、主知、主感の解釈ができましたが、これは極めて単純なる経験について云う事で、その経験は一の全《まった》き経験でありますから、この経験に対する注意の向け方、すなわち態度一つで、こう両面に分解はできますようなものの、この両極端の態度を取って、いずれへか片づけなければならないように人間が出来上っていると思うのは中庸《ちゅうよう》を失した議論であります。分りやすいためにこそ、こう截然《せつぜん》たる区別はつけましたが、こう明暸に離れる場合は、あらゆる場合の両端に各《おの
前へ 次へ
全142ページ中47ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング