ある単純なる全部経験の一方面をあらわす事になっておりますが、私は便宜《べんぎ》のため全部経験の意義に用います。ただ便宜のために用いるのですから、実際の衝突のない事は私の説明を御聞になれば御分りになるだろうと思います。それからある心理学者は sensation は分解の結果到着する単純な経験で、現実な吾人の経験はもっと複雑なところから始まっているじゃないかと云ってるようですが、それも構いません。ただ sensation が単純な経験をあらわせば、私の目的には宜《よろ》しいのであります。もし不都合なら、そんな字を借用しないでもよろしい。面倒な事を云わないで、例でもって御話をすれば、早く合点《がてん》が行かれますから、すぐさま例に取りかかります。
 時々|酒問屋《さかどんや》の前などを御通りになると、目暗縞《めくらじま》の着物で唐桟《とうざん》の前垂《まえだれ》を三角に、小倉《こくら》の帯へ挟《はさ》んだ番頭さんが、菰被《こもかぶ》りの飲口《のみぐち》をゆるめて、樽《たる》の中からわずかばかりの酒を、もったいなそうに猪口《ちょく》に受けて舌の先へ持って行くところを御覧になる事があるでしょう。
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