に間違っているのに、使い道もあろうに身を持ち崩《くず》すために使い果したとあっては、申し訳が立つ立たないの段ではありません、頭のよくない人だと云われても仕方があるまいと思います。幸い今日の日本には、こう云う作家は見当《みあた》りませんが、自然派の趨勢《すうせい》一つでは、向後この種の作物がいつ何時あらわれて来ないとも限りませんから、御互に用心をしたら善かろうと存じていささか愚存をつけ加えました。
真を写す文学の特性はほぼこれで明暸《めいりょう》になりましたから、進んで善、美、壮を叙してこれに対する情操を維持しもしくは助長する文学の特性に移ります。しかしこれは前段と相待って分明になるべき関係的のものでありますから、私の申し上げべき事の影法師はすでに諸君の御認めになったはずであります。すなわち客観的態度の公平なるに対して、この態度の不公平――不公平と云うとおかしく聞えますが、好悪《こうお》に支配せられる事であります。意識の幅の一カ所だけが焦点にならなくてはならないのが原則で、この焦点は注意できまるのでありますから、もし好悪が注意に関係するとすれば、好悪のはげしいものには注意が余計集まる訳になります。したがって好悪が焦点を支配致します。さてこの意識の内容を紙へ写す際には好は好、悪《お》は悪で判然と明暸に意識された事でありますから、勢い悪の方すなわち嫌《きらい》な事、厭《いや》なもの、は避けるようになるか、もしくはこれを叙述するにしても嫌いなように写します。厭だと云う意味が分るようにして写します。最後には自己の好きなもの、面白いものを引き立てるための道具として写します。したがって叙述が評価的叙述になります。もっとも評価はあらわでない含蓄的の場合が多いかも知れませんが、ともかくも好悪《こうお》の両面を記述して、しかも公平に記述すると云う事は、あたかも冷熱の二性を写して、湯と水を同一視しろと云う注文と同じ事で、それ自身において矛盾であります。もし双方を叙する以上は勢い評価せねばならぬ事となります。のみか、たとい好きな方面だけを撰《えら》ぶにしても、撰ばれたものがことごとく一様の価値として作者の眼に映らない以上は、やはり表向きでも、内々でもいいから、評価のあらわれるようにしなければなりません。この意味で(差等をつけると云う意味)、この種の文学ではブルンチェルのいわゆる無取捨と云う事が不可能になるのであります。撰択《せんたく》と云う事が、あながちに甲はとる、乙は捨てると云う意味だと思うと誤解が生じやすうございますからちょっと弁じておきました。こう云う性質の文学であるからして、この種の文学には、真を写す文学に見出し難い特徴が出て参ります。すなわち作物を通じて著者の趣味を洞察する事ができると云う便宜《べんぎ》であります。もし我々の趣味がいわゆる人格の大部を構成するものと見傚《みな》し得るならば、作を通して著者自身の面影《おもかげ》を窺《うか》がう事ができると云っても差《さ》し支《つかえ》ないでありましょう。それで著書の趣味が深厚博大であればあるほど、深厚博大の趣味があらわれる訳になりますから、えらい人がこの種の文学をかいて、えらい人の人格に感化を受けたいと云う人が出て来て、双方がぴたり合えば、深厚博大の趣味が波動的に伝って行って、一篇の著書も大いなる影響を与える事ができます。しかし個人に重きを置かない社会にあっては、ヒーローを首肯《うけが》わない世においては、自他の懸隔《けんかく》差等を無視する平等観の盛んな時代においては、崇拝畏敬の念を迷信の残り物のごとく取り扱う国柄《くにがら》においては、思うほどの功果の出て来ないのはもちろんであります。したがって著作家は立派な趣味を育成したり、高尚な嗜好《しこう》を涵養《かんよう》したり、通俗以上の気品を修得する事が不必要になって参ります。つまりは事相に対する評価を、世間が著作家に対して要求しないからであります。御前方は真相を与えればいい、評価の方はこちらで引き受けるからと云う読者ばかりになるからであります。我々の知りたいのは事実である、著者は事実を与える媒介者《ばいかいしゃ》として、重きを置く必要はあろうが、著者自身の人格や、趣味や、評価は、かえって迷惑だと云う読者ばかりになるからであります。迷惑は聞えておりますが、迷惑と感じる人が、各々自己に相当の評価的標準を具して、その標準で評価しつつ作に向うか向わないかが疑問であります。もし向わないとすると、(全然この態度を滅却《めっきゃく》する事は不可能でありますが、もし真を本位として著作に向うと、思ったよりも評価的神経は遅鈍になります)その結果は人間がだんだん不具になります。自己の趣味は――趣味のない人は全然ありませんが――同趣味のものと、接触するために、涵養
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