を使って説明をしております。しかし二者を截然《せつぜん》区別のあるごとく論じているのが欠点かと思われます。)すでに公平無視の立場でありますから、問題の撰択《せんたく》がない。撰択がないと云うのは、意識界に落つるものがことごとく焦点になってしまうと云う訳ではありません。意識界のどの部分も比較的自由に焦点になり得ると云う意味であります。毛嫌《けぎらい》をしないと云う事であります。あるものだけに注意が向いて、その他には頑強《がんきょう》の抵抗があって、気が向けられないというような状態におらない事を指すのであります。だからもう一つ言葉を換えて云うと叙述すべき事相に自己の評価を与えて優劣の差別をつけないと云う事にもなります。例《たと》えば美くしい女と差し向いになる。――ありがたい。――女が恋の物語をする。――嬉《うれ》しい。――ところで急に女が欠伸《あくび》をする。――と急に厭《いや》になる。厭になったからと云って、そこだけ抜きにしてしまったら、抜かしただけが事実に叶《かな》わなくなる。しかし事実を書くからには、真を写すと云うからには、いたずらに好悪の念だけで欠伸を棄てべきものではないはずでありましょう。真に妨げなきものとして略すとこそ云うべきでありましょう。また別の例を挙《あ》げて見ますと、ここに一人の医者があります。ある患者の病症を確《たしか》めるために検尿《けんにょう》をやる、あるいは検便をやる。わきから見るとずいぶんきたない話であります。しかし本人は別に留意する気色もなく、熱心に検査をする。尿なり便なりの成分を確めるまでは是非やります。もし、きたないから好加減《いいかげん》にしてやめると云う医者があったらそれこそ大変であります。医者の職分を忘れたものであります。医者ばかりではありません、学者でもそうであります。動物学者が御苦労にも泥溝《どぶ》の中から一滴の水を取って来て、しきりに顕微鏡で眺めています。たくさん虫が見えるでしょう。しかしみんな裸体に違ない、のみならず時々はいかがわしい状態をするかもしれない。覗《のぞ》き込んでいる動物学者がこの有様を見て、いやこれは大変だ風紀に害があるから、もう研究をやめよう。と云う馬鹿もないでしょうが、あったらどうでしょう。非常に道徳心の高い動物学者には相違ないでしょうが、しかし真理の研究者としてはほとんど三文の価値もないと申さなければなりません。文学者もその通りかと存じます。真を目的とする以上は、真を回避するのは卑怯《ひきょう》であります。露骨に書かなければなりません。大胆に忌憚《きたん》なく筆を着けなくっては、真に対して面目のない事になります。(この点において善、美、壮に対する情操と時々衝突を起す事は文芸の哲学的基礎において述べましたし、前段においても一方が強くなると、一方が弱くなる事実を例証しましたから御記憶を願います)けれども真に向って進む人が必ずしも好悪のない人とは申されません。真に向って進む間だけ好悪の念を脱却するのであります。尿を検査する医師がいつでも尿に無頓着《むとんじゃく》とは受け取れません。無頓着ならば食卓の上に便器があっても平然として食事ができるはずであります。虫の交尾するところを研究する動物学者だって、虫以外の万事までにその態度を応用する勇気はないでしょう。ただ真を研究する時だけ他を忘れ得るほどに真に熱中するのであると解釈しなければなりません。真を写す文学者もこの医者や動物学者と同じ態度で、平生は依然として善意に拘泥《こうでい》し、美醜に頓着し、壮劣に留意する人間である事は争うべからざるの事実であります。柳は緑、花は紅、そのほかに何の奇があると云います。しかし実際はこう素気《そっけ》ない世の中ではありません。柳に舟を繋《つな》ぎたくなったり、花の下で扇を翳《かざ》したくなるのが人情であります。
 そこでこう云う事が起ります。真を描く文学は、真を究《きわ》めさえすればよろしいとなる。その結果他の情操と衝突しても、まあ好いとする。――読者の方では好いとしないかも知れませんが――しかしながら真は取捨なき事相であります。公平の叙述であります。好悪の念を離れたる描写であります。したがって褒貶《ほうへん》の私意を寓《ぐう》しては自家撞着《じかどうちゃく》の窮地に陥《おち》いります。ことに作以外の実際において、約束的にせよ善に与《くみ》し悪を忌《い》み、美を愛し、醜を嫌うものが、単に作物の上においてのみ矛《ほこ》を逆《さかさ》まにして悪を鼓吹《こすい》し、醜を奨励《しょうれい》する態度を示すのは、ただに標準を誤まるのみならず、誤まった標準を逆に使用している点において二重の自殺と云われても仕方がありますまい。書籍を買う条件で国から為替《かわせ》を取り寄せて、これを別途に支弁するからが、すで
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