いてありましたが、どうもその方の価値は乏しい。真とか真でないと云う事は、たくさんの人の経験が一致して存在していると認めるか、また天下に一人でもいいからその存在を認めたものがあって、これが真だと云った時に、他のものがこれを認識しなくてはならんものであります、また本人は真だと証明し得るものでなくてはなりません。出来得るものならば実験ででも証明し得るものの方がたしかには相違ないのであります。ところがこの幽霊談になるとなかなか容易には証明できない。できるようになるかも知れませんが、今のところではまず嘘《うそ》に近い方であります。しかしながら胸中の恋とか、なつかしさとか云うものは、たとい人に見せられないまでも、よし人が想像してくれないまでも、また好い加減に甲、乙、丙、丁のだれの胸の中にも存在しているんだろうぐらいに推察しているにもかかわらず、自分だけにとってはこれほどたしかなものはありません。これほど切実な経験はありません。だからやっぱり真だろうと云われると、ごもっともと云わなければなりません。ただ自分に真なものすなわち人に真なものになって、始めて世間に通用する真が成立するのだから、この切実な経験を誰が見ても動かすべからざる真にもり立てようとするには、これを客観的に安置する必要が起って参ります。そこで私はこの演説の冒頭に自分の過去の経験も非我の経験と見傚《みな》す事ができると云ってあらかじめ予防線を張っておきました。刻下の感じこそ、我の所有で、また我一人の所有でありますが、回顧した感じは他人のものであると申しました。少なくとも自分に縁故のもっとも近い他人のものとして取り扱う事ができると申しました。愛と云うと一字であります。自分の愛と人の愛と云えば、たとい分量性質が同じでもついに所有者が違って参ります。愛の見当《けんとう》が違います。方角が違います。したがって自己の過去の愛と他人の愛とは等しく非我の経験と見傚し得ます。この点において主観的なる愛そのものを一歩離れて眺める事ができます。ただ困る事は、時により場合により増減があって、変化の度が著るしく眼につくんで、それがため客観的価値が大分下落致します。のみならず悲しい事には、いくら客観的に見る事ができても、客観的に写す事ができない性質のものであります。ある坊さんに、あなたちょっと魂を手の平へ乗せて見せておくれんかと云われて、弱った
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