せん。しかし事実は多くの場合において、あたかも子を産む事を目的にして結婚をしたように見えます。さればといって子孫を作る目的で嫁を貰ってならんと云う理由もありませんから、結果が同じならどうでも構わないでしょう。私はこの目的を眼中に置かないで、おのずからこの目的に叶《かな》うような述作をやる人を art for art 派の芸術家と云いたいと思います。俗に art for art 派と云うと何だか、ことさらに道徳を無視する作家のみを指すようですが、たとい道徳的情操を鼓吹《こすい》したって、始めから、この目的を本位として、述作にとりかからずに、出来上った結果だけがおのずからこの目的にかなっていたらやはり art for art の作家かと思います。ユーゴーの攻撃のごときは固《もと》より歴史的にああいう必要もあったのでしょうが、私のように解釈したらあれほど議論をする必要もなかろうと思います。同時に最初から一定の目的をもって出立したって構わない訳かと存じます。普通この立場を非難する人の説はこうなんだろうと思います。作そのものが芸術家の目的であるのに、作以前にある目的を立てておいて、その目的のために、作を道具に使えば無理ができるから、作の価値に影響を及ぼしてくるところに弊《へい》がある。――はたしてこうならば至極《しごく》ごもっともであります。しかしあらかじめ胸中にある目的を立てるのと、作そのものを目的にするのとはこの場合において、そんなに判然たる区別はありません。刀は人を殺す道具であります。すると人を殺すという所作《しょさ》が目的になります。だから二つのものは全く違います。しかし斬《き》るという働きを考えたらばどうでしょう。方便でしょうか目的でしょうか。刀を使うという方から云えば方便でありますが、殺す方から見れば、目的にもなりましょう。云い換えると、斬ると云う働きが一歩進むごとに、殺すと云う目的が一歩ずつ達せられるので、斬り了《おわ》った時に目的は終局に帰するのだからして、斬るのと殺すのはそう差違はありません。述作と述作の目的とは斬ると殺すくらいの差じゃなかろうかと思います。述作そのものを方便としたって、方便と共に目的も修了せられる訳ではないでしょうか。少なくとも、今述べたような目的をもってならば最初からその心得で述作に取りかかっても、ただ述作だけを目懸《めが》けて取りかかっ
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