てた、範疇のつもりであります。御相談では片っ方へ編入してもよろしゅうございます。それから人間の所為を離れていわゆる物質界に意志の発現もしくはそのポテンシャリチーを認めた場合には、この意志は変じて物理上の energy のようなものになります。少なくとも人間の意志とは趣を異にして参ります。かように壮の発現もしくは潜伏が物質界に移るとすると、美の範疇と接近して参ります。それ故時宜によっては、これも美のなかへ押し込んでも構いません。まず不完全ながら善、美、壮、の解釈はこうと致して、この三者に対する我の受け方を叙述するのがこの方面の文学の目的であります。ところが我の受け方は千差万別に錯雑して参りますが、総括すると快不快の二字に帰着致します、好悪の二字に落ちて参ります。すなわち善に逢《あ》って善を好み、悪を見て悪を悪《にく》み、美に接して美を愛し、醜に近づいて醜を忌《い》み、壮を仰いで壮を慕い、弱を目して弱を賤《いや》しむの類であります。固《もと》より善、美、壮の考は人により時により、相違はあります、また、三が冒《おか》し合わないとも限りますまい。現に前に述べたカロリーネの話でも愛に従うのを善とすれば、あの話を読んで充分満足の気分になれましょうし、また夫《おっと》に従うのを善とすれば、どうも不快な話になります。しかしどう浮世が引《ひ》っ繰《く》り返《かえ》っても、三者に対する情操のない世はないはずで、いかに無頓着《むとんじゃく》な人間でもこの点において全然好悪を持っていない人はありません。もしあれば社会が維持できないばかりであります。一歩進んで云えば社会は改良できない訳であります。器械的の改良すなわち法律が細かくなるとか巡査の数を殖《ふや》す事はできますが、肝心《かんじん》の人間の行為を支配する根本の大部分を閑却して世の中が運転する訳がありません。これがために、これらの情操を維持し、助長する事を目的にする文学が成立するのであります。
 私は客観主観両方面の文学の目的とするところを一言述べました。ここに目的と云うのは叙述家自らが、叙述以前にかかる目的を有しておらなければならんという意味ではありません。その結果だけがこう云う目的に叶《かな》っているだけでもいっこう差支《さしつかえ》ないのであります。我々が結婚するようなもので、何も必ず子を産む了見《りょうけん》で嫁を貰うとは限りま
前へ 次へ
全71ページ中43ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング