叙述だと解されないとも限りません。して見ると自然派と浪漫派もある場合には、客観主観の叙述が合し得るごとくに合し得るものと見ても差支《さしつかえ》ない、かと思います。(もっともこれは一句や二句の叙述でありませんから、「眉のような月」のように、きっぱりとは参りません。ただ両態度の傾向を推《お》して極端まで持って行った御話ですからその辺は御斟酌《ごしんしゃく》を願います)
これは一つの態度が両様に認められ得ると云う例でありますが、もう一つ前節の最初に申した我々の態度は常に両極の間をぶらついて、いるもので、けっして片っ方づけられるものでないと云う事を御話をしてそれから、議論の歩を進めたいと思います。これも分りやすいためになるべく単簡《たんかん》に通俗な例で説明致します。普通用談の際は無論雑談の際でも、我々は滅多《めった》に主観的な叙述を用いてはいないと思っています。詩的な、浪漫的な句は筆を執《と》って紙にでも咏懐《えいかい》の辞を書き下す時に限るように考えています。ところが実際は大違で、談笑の際|始終《しじゅう》この種の叙述をやっております。腹の虫が承知しないなどと云うのもその一つであります。腹のなかに虫はおりません。よしおったところで、承知しない虫はおりません。承知しない虫がいたって誰が相談なんかするものですか。あるいは腹が立つと申します。腹が立つと云ったって、元来|坐《すわ》りもしない腹が立ちようがないじゃありませんか。あるいは眼が廻るとも云うようですが、今日までまだ眼玉の廻転している人に逢《あ》った事がありません。それにもかかわらず三句とも皆通用しています。これは皆主観的態度で話し主観的態度で聞いているのであります。この態度で話せばこそ、聞けばこそ通用するのであります。大袈裟《おおげさ》に云うと御互が浪漫派だから合点ができるのであります。簡単を尊んで、短かい句だけで説明しましたが、もっと長くなっても精神に変りはありません。この態度で行く方が大分便利な事があります。その代り徹頭徹尾浪漫派ではやはり辟易《へきえき》します。「君富士山へ登ったそうじゃないか」「うん登った」「どんなだい」「どんなの、こんなのって大変さ」「どうして」「まず足は棒になる、腹は豆腐になる」「へえー」「それから耳の底でダイナマイトが爆発して、眼の奥で大火事が始まったかと思うと頭葢骨《ずがいこつ》の中
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