です。モリスはチョーサーに似ていると云います。そのチョーサーは詩人ではあるが写実派と云う方が適当であります。すると浪漫主義を中世主義と解釈せぬ以上はスコットとモリスとを同じ浪漫派に入れるのが妙になって来ます。今度はモリスとゴーチェを比較する。誰が見ても同じ範疇《はんちゅう》では律せられそうもない。それでも双方共浪漫家で通用しています。ある人の説によると仏蘭西《フランス》の自然派は浪漫派を極端まで発展させたもので、けっして別途の径路をたどるものではないと申します。そうなると自然派は浪漫派の出店みたようなものになってしまいます。イブセンを捕《つら》まえて自然派だと云う人があります。どうもイブセンとモーパサンとはいっしょにならないように思われます。そうかと思うとイブセンを浪漫派だと申す人があります。しかしイブセンとユーゴーとはとうてい同じ畠《はたけ》のものじゃないようであります。要するに二三の主義をどこまでも押し通して、あらゆる作物をどっちかへ片づけようとする無理から起ったものじゃないかと考えられます。イブセンならイブセンを本位として、説明するには、在来の何々主義(しかもそのうちの一つ)で足りると思うのは、また足りなければならないと思い定めてかかるのは、やはり歴史的研究の弊を受けたものではなかろうかと愚考致します。それで少々出立地を変えて見たら、この窮屈を破ると同時にこの曖昧《あいまい》をも幾分か避けられるだろうと思います。
(四)[#(四)は縦中横] もう一つ申して本題に入るつもりでありますが、これは純粋なる歴史的研究とは云えないかも知れません。今まで述べた三カ条はみな文学史に連続した発展があるものと認めて、旧を棄《す》てて漫《みだ》りに新を追う弊とか、偶然に出て来た人間の作のために何主義と云う名を冠して、作そのものを是非この主義を代表するように取り扱った結果、妥当を欠くにもかかわらずこれをあくまでも取り崩《くず》しがたき whole と見傚《みな》す弊や、あるいは漸移《ぜんい》の勢につれてこの主義の意義が変化を受けて混雑を来《きた》す弊を述べたのであります。ここに申す事は歴史に関係はありますが、歴史の発展とはさほど交渉はないように思われます。すなわち作物を区別するのに、ある時代の、ある個人の特性を本《もと》として成り立った某々主義をもってする代りに、古今東西に渉《わ
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