においていずれが比較的必要かと云うと、少しは特別の問題になりますから、この点を一応調べた上、演説の局を結ぼうかと思います。情操文学の目的は情操を維持し、啓発し、また向上化するにあるとは私の前に述べた通りであります。さて与えられたる情操は与えられたる事相に附着しております。たとえば孝と云う情操は親子の関係に附着しております。ところが親子の関係は社会上複雑な源因からして、わが日本では著るしく変って参りました。この関係が変われば、孝と云う情操の評価もしだいに変らなければならない訳になります。しかるに旧来の親子関係に附着したままの評価を与えて、孝を叙述していると、在来の孝心を維持するか、もしくは不孝のものを啓発するか、または一層孝心を深くするための叙述になります。今日は孝の時代でないから親を粗末にして好いと誰も云うものはありませんが、昔のように絶対的評価をつけて叙述するのは、どうでありましょう。孝と云う字は現に勅語にもあって大切な情操には相違ございませんが、昔日のように親が絶対的権威を弄《ろう》する事を社会の有様が許さない以上は、多少その辺に注意を払った適度の評価をしなければなりますまい。もしこれを在来のままで絶対評価をもって叙述すると時勢後れになります。せっかくの目的が達せられなくなります。昔は親のために身を苦海に沈めるのを孝と云ったかも知れない。今日の我々から見ても孝かも知れないが、よし娘が拒絶したって、事柄《ことがら》が事柄だから不孝とは思いますまい。それだけ孝の評価が下落したのであります。これを西洋人に云わせると、頭からてんで想像し得られないと云います。西洋へ行くと孝の評価がまた一段下がるのであります。こういう風に評価が変って行くのはつまるところ、前に云った社会状態の変化に基《もとづ》いた結果にほかならんのでありますから、この状態の変化を知りさえすれば、旧来の評価を墨守する必要がなくなります。これを知らねばこそ煩悶《はんもん》が起ったり矛盾が起ったりして苦しむのであります。こういう時に誰か眼の明きらかな人が、この状態の変化を知[#「知」に白丸傍点]らせる、――すなわち客観的に叙述すれば、読者ははあなるほど[#「はあなるほど」に傍点]と思うので、大変な解脱《げだつ》になります。(こんな単純な場合では解脱にもなりますまいが、まあ例ですからそのつもりで御聞きを願います)そ
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