乱れております。のみならず、あるものは見方読方ではどっちへでも編入のできるものも生ずるはずであります。だから詳《くわ》しい区別を云うと、純客観態度と純主観態度の間に無数の変化を生ずるのみならず、この変化のおのおののものと他と結びつけて雑種を作ればまた無数の第二変化が成立する訳でありますから、誰の作は自然派だとか、誰の作は浪漫派だとか、そう一概に云えたものではないでしょう。それよりも誰の作のここの所はこんな意味の浪漫的趣味で、ここの所は、こんな意味の自然派趣味だと、作物を解剖して一々指摘するのみならず、その指摘した場所の趣味までも、単に浪漫、自然の二字をもって単簡《たんかん》に律し去らないで、どのくらいの異分子が、どのくらいの割合で交ったものかを説明するようにしたら今日の弊《へい》が救われるかも知れないと思います。今日の日本の批評は山県は長州人だ大山は薩州人だというような具合に傾《かたむ》いていはしないかと考えられます。それよりも山県はこんな人、大山はこんな人と解剖しまた綜合《そうごう》する方が二元帥を評する適当の方法かと存じます。それでも長州薩州は地図の上で動かすべからざる面積を持っておりますから、まだ混雑が少ないようですが、歴史の流を沿うて漂いついた二派は名前は昔の通りですが内容は始終《しじゅう》変っておりますからなお不都合であります。だから、もし作物を本位としないで、主義を本位とするならば主義の意義を確然と定めて、そうしてその主義のもとに、その主義に叶《かな》う局部(作物《さくぶつ》の)を排列して、この主義の実例とするが適当だろうと思います。一つの作物と、一つの主義をアイデンチフワイしなければ気がすまないような考は是非共改める事に致したいと思います。これから先き文学上の作物の性質は異分子の結合でいよいよ複雑になって参りますから、幾多の変態を認めなければならないのは無論の事であります。したがって、二三の主義を終古一定のものとして、万事をこれで律せんとするのみならず、律せんとする尺度の年々に移り行くのを咎《とが》めないのは、将来出現の作家には不便宜の極で、かつ批評家の無責任を表白するものではないかと存じます。
 客観、主観両面の目的、特性、必要、関係等はほぼ述べ終りました。以上は大体の御話であります。固《もと》より普遍的の論で一般に通ずる説とは信じますが、今日の日本
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