Aところどころに岩が自然のまま水際《みずぎわ》に横《よこた》わっている。縁の高さも、池の形の名状しがたいように、波を打って、色々な起伏を不規則に連《つら》ねている。
池をめぐりては雑木《ぞうき》が多い。何百本あるか勘定《かんじょう》がし切れぬ。中には、まだ春の芽を吹いておらんのがある。割合に枝の繁《こ》まない所は、依然として、うららかな春の日を受けて、萌《も》え出でた下草《したぐさ》さえある。壺菫《つぼすみれ》の淡き影が、ちらりちらりとその間に見える。
日本の菫は眠っている感じである。「天来《てんらい》の奇想のように」、と形容した西人《せいじん》の句はとうていあてはまるまい。こう思う途端《とたん》に余の足はとまった。足がとまれば、厭《いや》になるまでそこにいる。いられるのは、幸福な人である。東京でそんな事をすれば、すぐ電車に引き殺される。電車が殺さなければ巡査が追い立てる。都会は太平の民《たみ》を乞食《こじき》と間違えて、掏摸《すり》の親分たる探偵《たんてい》に高い月俸を払う所である。
余は草を茵《しとね》に太平の尻をそろりと卸《おろ》した。ここならば、五六日こうしたなり動かないでも、誰も苦情を持ち出す気遣《きづかい》はない。自然のありがたいところはここにある。いざとなると容赦《ようしゃ》も未練《みれん》もない代りには、人に因《よ》って取り扱をかえるような軽薄な態度はすこしも見せない。岩崎《いわさき》や三井《みつい》を眼中に置かぬものは、いくらでもいる。冷然として古今《ここん》帝王の権威を風馬牛《ふうばぎゅう》し得るものは自然のみであろう。自然の徳は高く塵界を超越して、対絶の平等観《びょうどうかん》を無辺際《むへんさい》に樹立している。天下の羣小《ぐんしょう》を麾《さしまね》いで、いたずらにタイモンの憤《いきどお》りを招くよりは、蘭《らん》を九|※[#「田+宛」、第3水準1−88−43]《えん》に滋《ま》き、※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]《けい》を百|畦《けい》に樹《う》えて、独《ひと》りその裏《うち》に起臥《きが》する方が遥かに得策である。余は公平と云い無私《むし》と云う。さほど大事《だいじ》なものならば、日に千人の小賊《しょうぞく》を戮《りく》して、満圃《まんぽ》の草花を彼らの屍《しかばね》に培養《つちか》うがよかろう。
何だか考《かんがえ》が理《り》に落ちていっこうつまらなくなった。こんな中学程度の観想《かんそう》を練りにわざわざ、鏡が池まで来はせぬ。袂《たもと》から煙草《たばこ》を出して、寸燐《マッチ》をシュッと擦《す》る。手応《てごたえ》はあったが火は見えない。敷島《しきしま》のさきに付けて吸ってみると、鼻から煙が出た。なるほど、吸ったんだなとようやく気がついた。寸燐《マッチ》は短かい草のなかで、しばらく雨竜《あまりょう》のような細い煙りを吐いて、すぐ寂滅《じゃくめつ》した。席をずらせてだんだん水際《みずぎわ》まで出て見る。余が茵は天然に池のなかに、ながれ込んで、足を浸《ひた》せば生温《なまぬる》い水につくかも知れぬと云う間際《まぎわ》で、とまる。水を覗《のぞ》いて見る。
眼の届く所はさまで深そうにもない。底には細長い水草《みずぐさ》が、往生《おうじょう》して沈んでいる。余は往生と云うよりほかに形容すべき言葉を知らぬ。岡の薄《すすき》なら靡《なび》く事を知っている。藻《も》の草ならば誘《さそ》う波の情《なさ》けを待つ。百年待っても動きそうもない、水の底に沈められたこの水草は、動くべきすべての姿勢を調《ととの》えて、朝な夕なに、弄《なぶ》らるる期を、待ち暮らし、待ち明かし、幾代《いくよ》の思《おもい》を茎《くき》の先に籠《こ》めながら、今に至るまでついに動き得ずに、また死に切れずに、生きているらしい。
余は立ち上がって、草の中から、手頃の石を二つ拾って来る。功徳《くどく》になると思ったから、眼の先へ、一つ抛《ほう》り込んでやる。ぶくぶくと泡《あわ》が二つ浮いて、すぐ消えた。すぐ消えた、すぐ消えたと、余は心のうちで繰り返す。すかして見ると、三茎《みくき》ほどの長い髪が、慵《ものうげ》に揺れかかっている。見つかってはと云わぬばかりに、濁った水が底の方から隠しに来る。南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》。
今度は思い切って、懸命に真中《まんなか》へなげる。ぽかんと幽《かす》かに音がした。静かなるものは決して取り合わない。もう抛《な》げる気も無くなった。絵の具箱と帽子を置いたまま右手へ廻る。
二間余りを爪先上《つまさきあ》がりに登る。頭の上には大きな樹《き》がかぶさって、身体《からだ》が急に寒くなる。向う岸の暗い所に椿《つばき》が咲いている。椿の葉は緑が深すぎて、昼見ても、日向《ひなた》で見ても、軽快な感じはない。ことにこの椿は岩角《いわかど》を、奥へ二三間|遠退《とおの》いて、花がなければ、何があるか気のつかない所に森閑《しんかん》として、かたまっている。その花が! 一日|勘定《かんじょう》しても無論勘定し切れぬほど多い。しかし眼がつけば是非勘定したくなるほど鮮《あざや》かである。ただ鮮かと云うばかりで、いっこう陽気な感じがない。ぱっと燃え立つようで、思わず、気を奪《と》られた、後《あと》は何だか凄《すご》くなる。あれほど人を欺《だま》す花はない。余は深山椿《みやまつばき》を見るたびにいつでも妖女《ようじょ》の姿を連想する。黒い眼で人を釣り寄せて、しらぬ間に、嫣然《えんぜん》たる毒を血管に吹く。欺《あざむ》かれたと悟《さと》った頃はすでに遅い。向う側の椿が眼に入《い》った時、余は、ええ、見なければよかったと思った。あの花の色はただの赤ではない。眼を醒《さま》すほどの派出《はで》やかさの奥に、言うに言われぬ沈んだ調子を持っている。悄然《しょうぜん》として萎《しお》れる雨中《うちゅう》の梨花《りか》には、ただ憐れな感じがする。冷やかに艶《えん》なる月下《げっか》の海棠《かいどう》には、ただ愛らしい気持ちがする。椿の沈んでいるのは全く違う。黒ずんだ、毒気のある、恐ろし味《み》を帯びた調子である。この調子を底に持って、上部《うわべ》はどこまでも派出に装《よそお》っている。しかも人に媚《こ》ぶる態《さま》もなければ、ことさらに人を招く様子も見えぬ。ぱっと咲き、ぽたりと落ち、ぽたりと落ち、ぱっと咲いて、幾百年の星霜《せいそう》を、人目にかからぬ山陰に落ちつき払って暮らしている。ただ一眼《ひとめ》見たが最後! 見た人は彼女の魔力から金輪際《こんりんざい》、免《のが》るる事は出来ない。あの色はただの赤ではない。屠《ほふ》られたる囚人《しゅうじん》の血が、自《おの》ずから人の眼を惹《ひ》いて、自から人の心を不快にするごとく一種異様な赤である。
見ていると、ぽたり赤い奴が水の上に落ちた。静かな春に動いたものはただこの一輪である。しばらくするとまたぽたり落ちた。あの花は決して散らない。崩《くず》れるよりも、かたまったまま枝を離れる。枝を離れるときは一度に離れるから、未練《みれん》のないように見えるが、落ちてもかたまっているところは、何となく毒々しい。またぽたり落ちる。ああやって落ちているうちに、池の水が赤くなるだろうと考えた。花が静かに浮いている辺《あたり》は今でも少々赤いような気がする。また落ちた。地の上へ落ちたのか、水の上へ落ちたのか、区別がつかぬくらい静かに浮く。また落ちる。あれが沈む事があるだろうかと思う。年々《ねんねん》落ち尽す幾万輪の椿は、水につかって、色が溶《と》け出して、腐って泥になって、ようやく底に沈むのかしらん。幾千年の後にはこの古池が、人の知らぬ間《ま》に、落ちた椿のために、埋《うず》もれて、元の平地《ひらち》に戻るかも知れぬ。また一つ大きいのが血を塗った、人魂《ひとだま》のように落ちる。また落ちる。ぽたりぽたりと落ちる。際限なく落ちる。
こんな所へ美しい女の浮いているところをかいたら、どうだろうと思いながら、元の所へ帰って、また煙草を呑《の》んで、ぼんやり考え込む。温泉場《ゆば》の御那美《おなみ》さんが昨日《きのう》冗談《じょうだん》に云った言葉が、うねりを打って、記憶のうちに寄せてくる。心は大浪《おおなみ》にのる一枚の板子《いたご》のように揺れる。あの顔を種《たね》にして、あの椿の下に浮かせて、上から椿を幾輪も落とす。椿が長《とこしな》えに落ちて、女が長えに水に浮いている感じをあらわしたいが、それが画《え》でかけるだろうか。かのラオコーンには――ラオコーンなどはどうでも構わない。原理に背《そむ》いても、背かなくっても、そう云う心持ちさえ出ればいい。しかし人間を離れないで人間以上の永久と云う感じを出すのは容易な事ではない。第一顔に困る。あの顔を借りるにしても、あの表情では駄目だ。苦痛が勝ってはすべてを打《う》ち壊《こ》わしてしまう。と云ってむやみに気楽ではなお困る。一層《いっそ》ほかの顔にしては、どうだろう。あれか、これかと指を折って見るが、どうも思《おもわ》しくない。やはり御那美さんの顔が一番似合うようだ。しかし何だか物足らない。物足らないとまでは気がつくが、どこが物足らないかが、吾《われ》ながら不明である。したがって自己の想像でいい加減に作り易《か》える訳に行かない。あれに嫉※[#「女+戸」、第3水準1−15−76]《しっと》を加えたら、どうだろう。嫉※[#「女+戸」、第3水準1−15−76]では不安の感が多過ぎる。憎悪《ぞうお》はどうだろう。憎悪は烈《は》げし過ぎる。怒《いかり》? 怒では全然調和を破る。恨《うらみ》? 恨でも春恨《しゅんこん》とか云う、詩的のものならば格別、ただの恨では余り俗である。いろいろに考えた末、しまいにようやくこれだと気がついた。多くある情緒《じょうしょ》のうちで、憐《あわ》れと云う字のあるのを忘れていた。憐れは神の知らぬ情《じょう》で、しかも神にもっとも近き人間の情である。御那美さんの表情のうちにはこの憐れの念が少しもあらわれておらぬ。そこが物足らぬのである。ある咄嗟《とっさ》の衝動で、この情があの女の眉宇《びう》にひらめいた瞬時に、わが画《え》は成就《じょうじゅ》するであろう。しかし――いつそれが見られるか解らない。あの女の顔に普段充満しているものは、人を馬鹿にする微笑《うすわらい》と、勝とう、勝とうと焦《あせ》る八の字のンである。あれだけでは、とても物にならない。
がさりがさりと足音がする。胸裏《きょうり》の図案は三|分《ぶ》二で崩《くず》れた。見ると、筒袖《つつそで》を着た男が、背《せ》へ薪《まき》を載《の》せて、熊笹《くまざさ》のなかを観海寺の方へわたってくる。隣りの山からおりて来たのだろう。
「よい御天気で」と手拭《てぬぐい》をとって挨拶《あいさつ》する。腰を屈《かが》める途端《とたん》に、三尺帯に落《おと》した鉈《なた》の刃《は》がぴかりと光った。四十|恰好《がっこう》の逞《たくま》しい男である。どこかで見たようだ。男は旧知のように馴々《なれなれ》しい。
「旦那《だんな》も画を御描《おか》きなさるか」余の絵の具箱は開《あ》けてあった。
「ああ。この池でも画《か》こうと思って来て見たが、淋《さみ》しい所だね。誰も通らない」
「はあい。まことに山の中で……旦那あ、峠《とうげ》で御降《おふ》られなさって、さぞ御困りでござんしたろ」
「え? うん御前《おまえ》はあの時の馬子《まご》さんだね」
「はあい。こうやって薪《たきぎ》を切っては城下《じょうか》へ持って出ます」と源兵衛は荷を卸《おろ》して、その上へ腰をかける。煙草入《たばこいれ》を出す。古いものだ。紙だか革《かわ》だか分らない。余は寸燐《マッチ》を借《か》してやる。
「あんな所を毎日越すなあ大変だね」
「なあに、馴れていますから――それに毎日は越しません。三日《みっか》に一|返《ぺん》、ことによると四日目《よっかめ》くらいになります」
「四日に一|返《ぺん》でも御免だ」
「ア
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