草枕
夏目漱石

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)山路《やまみち》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)三軒|両隣《りょうどな》り

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「王へん+樛のつくり」、第3水準1−88−22]
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        一

 山路《やまみち》を登りながら、こう考えた。
 智《ち》に働けば角《かど》が立つ。情《じょう》に棹《さお》させば流される。意地を通《とお》せば窮屈《きゅうくつ》だ。とかくに人の世は住みにくい。
 住みにくさが高《こう》じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟《さと》った時、詩が生れて、画《え》が出来る。
 人の世[#「人の世」に傍点]を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒|両隣《りょうどな》りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世[#「人の世」に傍点]が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなし[#「人でなし」に傍点]の国へ行くばかりだ。人でなし[#「人でなし」に傍点]の国は人の世[#「人の世」に傍点]よりもなお住みにくかろう。
 越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容《くつろげ》て、束《つか》の間《ま》の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降《くだ》る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑《のどか》にし、人の心を豊かにするが故《ゆえ》に尊《たっ》とい。
 住みにくき世から、住みにくき煩《わずら》いを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、画《え》である。あるは音楽と彫刻である。こまかに云《い》えば写さないでもよい。ただまのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧《わ》く。着想を紙に落さぬとも※[#「王へん+樛のつくり」、第3水準1−88−22]鏘《きゅうそう》の音《おん》は胸裏《きょうり》に起《おこ》る。丹青《たんせい》は画架《がか》に向って塗抹《とまつ》せんでも五彩《ごさい》の絢爛《けんらん》は自《おのず》から心眼《しんがん》に映る。ただおのが住む世を、かく観《かん》じ得て、霊台方寸《れいだいほうすん》のカメラに澆季溷濁《ぎょうきこんだく》の俗界を清くうららかに収め得《う》れば足《た》る。この故に無声《むせい》の詩人には一句なく、無色《むしょく》の画家には尺※[#「糸+賺のつくり」、第3水準1−90−17]《せっけん》なきも、かく人世《じんせい》を観じ得るの点において、かく煩悩《ぼんのう》を解脱《げだつ》するの点において、かく清浄界《しょうじょうかい》に出入《しゅつにゅう》し得るの点において、またこの不同不二《ふどうふじ》の乾坤《けんこん》を建立《こんりゅう》し得るの点において、我利私慾《がりしよく》の覊絆《きはん》を掃蕩《そうとう》するの点において、――千金《せんきん》の子よりも、万乗《ばんじょう》の君よりも、あらゆる俗界の寵児《ちょうじ》よりも幸福である。
 世に住むこと二十年にして、住むに甲斐《かい》ある世と知った。二十五年にして明暗は表裏《ひょうり》のごとく、日のあたる所にはきっと影がさすと悟った。三十の今日《こんにち》はこう思うている。――喜びの深きとき憂《うれい》いよいよ深く、楽《たのし》みの大いなるほど苦しみも大きい。これを切り放そうとすると身が持てぬ。片《かた》づけようとすれば世が立たぬ。金は大事だ、大事なものが殖《ふ》えれば寝《ね》る間《ま》も心配だろう。恋はうれしい、嬉しい恋が積もれば、恋をせぬ昔がかえって恋しかろ。閣僚の肩は数百万人の足を支《ささ》えている。背中《せなか》には重い天下がおぶさっている。うまい物も食わねば惜しい。少し食えば飽《あ》き足《た》らぬ。存分食えばあとが不愉快だ。……
 余《よ》の考《かんがえ》がここまで漂流して来た時に、余の右足《うそく》は突然|坐《すわ》りのわるい角石《かくいし》の端《はし》を踏み損《そ》くなった。平衡《へいこう》を保つために、すわやと前に飛び出した左足《さそく》が、仕損《しそん》じの埋《う》め合《あわ》せをすると共に、余の腰は具合よく方《ほう》三尺ほどな岩の上に卸《お》りた。肩にかけた絵の具箱が腋《わき》の下から躍《おど》り出しただけで、幸いと何《なん》の事もなかった。
 立ち上がる時に向うを見ると、路《みち》から左の方にバケツを伏せたような峰が聳《そび》えている。杉か檜《ひのき》か分からないが根元《ねもと》から頂《いただ》きまでことごとく蒼黒《あおぐろ》い中に、山桜が薄赤くだんだらに棚引《たなび》いて、続《つ》ぎ目《め》が確《しか》と見えぬくらい靄《もや》が濃い。少し手前に禿山《はげやま》が一つ、群《ぐん》をぬきんでて眉《まゆ》に逼《せま》る。禿《は》げた側面は巨人の斧《おの》で削《けず》り去ったか、鋭どき平面をやけに谷の底に埋《うず》めている。天辺《てっぺん》に一本見えるのは赤松だろう。枝の間の空さえ判然《はっきり》している。行く手は二丁ほどで切れているが、高い所から赤い毛布《けっと》が動いて来るのを見ると、登ればあすこへ出るのだろう。路はすこぶる難義《なんぎ》だ。
 土をならすだけならさほど手間《てま》も入《い》るまいが、土の中には大きな石がある。土は平《たい》らにしても石は平らにならぬ。石は切り砕いても、岩は始末がつかぬ。掘崩《ほりくず》した土の上に悠然《ゆうぜん》と峙《そばだ》って、吾らのために道を譲る景色《けしき》はない。向うで聞かぬ上は乗り越すか、廻らなければならん。巌《いわ》のない所でさえ歩《あ》るきよくはない。左右が高くって、中心が窪《くぼ》んで、まるで一間|幅《はば》を三角に穿《く》って、その頂点が真中《まんなか》を貫《つらぬ》いていると評してもよい。路を行くと云わんより川底を渉《わた》ると云う方が適当だ。固《もと》より急ぐ旅でないから、ぶらぶらと七曲《ななまが》りへかかる。
 たちまち足の下で雲雀《ひばり》の声がし出した。谷を見下《みおろ》したが、どこで鳴いてるか影も形も見えぬ。ただ声だけが明らかに聞える。せっせと忙《せわ》しく、絶間《たえま》なく鳴いている。方幾里《ほういくり》の空気が一面に蚤《のみ》に刺されていたたまれないような気がする。あの鳥の鳴く音《ね》には瞬時の余裕もない。のどかな春の日を鳴き尽くし、鳴きあかし、また鳴き暮らさなければ気が済まんと見える。その上どこまでも登って行く、いつまでも登って行く。雲雀はきっと雲の中で死ぬに相違ない。登り詰めた揚句《あげく》は、流れて雲に入《い》って、漂《ただよ》うているうちに形は消えてなくなって、ただ声だけが空の裡《うち》に残るのかも知れない。
 巌角《いわかど》を鋭どく廻って、按摩《あんま》なら真逆様《まっさかさま》に落つるところを、際《きわ》どく右へ切れて、横に見下《みおろ》すと、菜《な》の花が一面に見える。雲雀はあすこへ落ちるのかと思った。いいや、あの黄金《こがね》の原から飛び上がってくるのかと思った。次には落ちる雲雀と、上《あが》る雲雀《ひばり》が十文字にすれ違うのかと思った。最後に、落ちる時も、上る時も、また十文字に擦《す》れ違うときにも元気よく鳴きつづけるだろうと思った。
 春は眠くなる。猫は鼠を捕《と》る事を忘れ、人間は借金のある事を忘れる。時には自分の魂《たましい》の居所《いどころ》さえ忘れて正体なくなる。ただ菜の花を遠く望んだときに眼が醒《さ》める。雲雀の声を聞いたときに魂のありかが判然《はんぜん》する。雲雀の鳴くのは口で鳴くのではない、魂全体が鳴くのだ。魂の活動が声にあらわれたもののうちで、あれほど元気のあるものはない。ああ愉快だ。こう思って、こう愉快になるのが詩である。
 たちまちシェレーの雲雀の詩を思い出して、口のうちで覚えたところだけ暗誦《あんしょう》して見たが、覚えているところは二三句しかなかった。その二三句のなかにこんなのがある。
[#ここから2字下げ]
  We look before and after
    And pine for what is not:
  Our sincerest laughter
    With some pain is fraught;
Our sweetest songs are those that tell of saddest thought.
[#ここで字下げ終わり]
「前をみては、後《しり》えを見ては、物欲《ものほ》しと、あこがるるかなわれ。腹からの、笑といえど、苦しみの、そこにあるべし。うつくしき、極《きわ》みの歌に、悲しさの、極みの想《おもい》、籠《こも》るとぞ知れ」
 なるほどいくら詩人が幸福でも、あの雲雀のように思い切って、一心不乱に、前後を忘却して、わが喜びを歌う訳《わけ》には行くまい。西洋の詩は無論の事、支那の詩にも、よく万斛《ばんこく》の愁《うれい》などと云う字がある。詩人だから万斛で素人《しろうと》なら一|合《ごう》で済むかも知れぬ。して見ると詩人は常の人よりも苦労性で、凡骨《ぼんこつ》の倍以上に神経が鋭敏なのかも知れん。超俗の喜びもあろうが、無量の悲《かなしみ》も多かろう。そんならば詩人になるのも考え物だ。
 しばらくは路が平《たいら》で、右は雑木山《ぞうきやま》、左は菜の花の見つづけである。足の下に時々|蒲公英《たんぽぽ》を踏みつける。鋸《のこぎり》のような葉が遠慮なく四方へのして真中に黄色な珠《たま》を擁護している。菜の花に気をとられて、踏みつけたあとで、気の毒な事をしたと、振り向いて見ると、黄色な珠は依然として鋸のなかに鎮座《ちんざ》している。呑気《のんき》なものだ。また考えをつづける。
 詩人に憂《うれい》はつきものかも知れないが、あの雲雀《ひばり》を聞く心持になれば微塵《みじん》の苦《く》もない。菜の花を見ても、ただうれしくて胸が躍《おど》るばかりだ。蒲公英もその通り、桜も――桜はいつか見えなくなった。こう山の中へ来て自然の景物《けいぶつ》に接すれば、見るものも聞くものも面白い。面白いだけで別段の苦しみも起らぬ。起るとすれば足が草臥《くたび》れて、旨《うま》いものが食べられぬくらいの事だろう。
 しかし苦しみのないのはなぜだろう。ただこの景色を一|幅《ぷく》の画《え》として観《み》、一|巻《かん》の詩として読むからである。画《が》であり詩である以上は地面《じめん》を貰って、開拓する気にもならねば、鉄道をかけて一儲《ひともう》けする了見《りょうけん》も起らぬ。ただこの景色が――腹の足《た》しにもならぬ、月給の補いにもならぬこの景色が景色としてのみ、余が心を楽ませつつあるから苦労も心配も伴《ともな》わぬのだろう。自然の力はここにおいて尊《たっ》とい。吾人の性情を瞬刻に陶冶《とうや》して醇乎《じゅんこ》として醇なる詩境に入らしむるのは自然である。
 恋はうつくしかろ、孝もうつくしかろ、忠君愛国も結構だろう。しかし自身がその局《きょく》に当れば利害の旋風《つむじ》に捲《ま》き込まれて、うつくしき事にも、結構な事にも、目は眩《くら》んでしまう。したがってどこに詩があるか自身には解《げ》しかねる。
 これがわかるためには、わかるだけの余裕のある第三者の地位に立たねばならぬ。三者の地位に立てばこそ芝居は観《み》て面白い。小説も見て面白い。芝居を見て面白い人も、小説を読んで面白い人も、自己の利害は棚《たな》へ上げている。見たり読んだりする間だけは詩人である。
 それすら、普通の芝居や小説では人情を免《まぬ》かれぬ。苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりする。見るものもいつかその中に同化して苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりする。取柄《とりえ》は利慾が交《まじ》らぬと云う点に存《そん》するかも知れぬが、交らぬだけにその他の情緒
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