ツくしい。万一この糸が見る間に太くなって井戸縄《いどなわ》のようにかたくなったら? そんな危険はない。余は画工である。先はただの女とは違う。
 突然襖があいた。寝返《ねがえ》りを打って入口を見ると、因果の相手のその銀杏返しが敷居の上に立って青磁《せいじ》の鉢《はち》を盆に乗せたまま佇《たたず》んでいる。
「また寝ていらっしゃるか、昨夕《ゆうべ》は御迷惑で御座んしたろう。何返《なんべん》も御邪魔をして、ほほほほ」と笑う。臆《おく》した景色《けしき》も、隠す景色も――恥ずる景色は無論ない。ただこちらが先《せん》を越されたのみである。
「今朝はありがとう」とまた礼を云った。考えると、丹前《たんぜん》の礼をこれで三|返《べん》云った。しかも、三返ながら、ただ難有う[#「難有う」に傍点]と云う三字である。
 女は余が起き返ろうとする枕元へ、早くも坐って
「まあ寝ていらっしゃい。寝ていても話は出来ましょう」と、さも気作《きさく》に云う。余は全くだと考えたから、ひとまず腹這《はらばい》になって、両手で顎《あご》を支《ささ》え、しばし畳の上へ肘壺《ひじつぼ》の柱を立てる。
「御退屈だろうと思って、御茶
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