にも、出る気にもならない。第一|昨夕《ゆうべ》はどうしてあんな心持ちになったのだろう。昼と夜を界《さかい》にこう天地が、でんぐり返るのは妙だ。
 身体《からだ》を拭《ふ》くさえ退儀《たいぎ》だから、いい加減にして、濡《ぬ》れたまま上《あが》って、風呂場の戸を内から開《あ》けると、また驚かされた。
「御早う。昨夕《ゆうべ》はよく寝られましたか」
 戸を開けるのと、この言葉とはほとんど同時にきた。人のいるさえ予期しておらぬ出合頭《であいがしら》の挨拶《あいさつ》だから、さそくの返事も出る遑《いとま》さえないうちに、
「さ、御召《おめ》しなさい」
と後《うし》ろへ廻って、ふわりと余の背中《せなか》へ柔かい着物をかけた。ようやくの事「これはありがとう……」だけ出して、向き直る、途端《とたん》に女は二三歩|退《しりぞ》いた。
 昔から小説家は必ず主人公の容貌《ようぼう》を極力描写することに相場がきまってる。古今東西の言語で、佳人《かじん》の品評《ひんぴょう》に使用せられたるものを列挙したならば、大蔵経《だいぞうきょう》とその量を争うかも知れぬ。この辟易《へきえき》すべき多量の形容詞中から、余と三
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