Zの中から出ていらっしゃい」
 余は唯々《いい》として木瓜の中から出て行く。
「まだ木瓜の中に御用があるんですか」
「もう無いんです。帰ろうかとも思うんです」
「それじゃごいっしょに参りましょうか」
「ええ」
 余は再び唯々として、木瓜の中に退《しりぞ》いて、帽子を被《かぶ》り、絵の道具を纏《まと》めて、那美さんといっしょにあるき出す。
「画を御描きになったの」
「やめました」
「ここへいらしって、まだ一枚も御描きなさらないじゃありませんか」
「ええ」
「でもせっかく画をかきにいらしって、ちっとも御かきなさらなくっちゃ、つまりませんわね」
「なにつまってるんです」
「おやそう。なぜ?」
「なぜでも、ちゃんとつまるんです。画なんぞ描《か》いたって、描かなくったって、つまるところは同《おんな》じ事でさあ」
「そりゃ洒落《しゃれ》なの、ホホホホ随分|呑気《のんき》ですねえ」
「こんな所へくるからには、呑気にでもしなくっちゃ、来た甲斐《かい》がないじゃありませんか」
「なあにどこにいても、呑気にしなくっちゃ、生きている甲斐はありませんよ。私なんぞは、今のようなところを人に見られても恥《はず》か
前へ 次へ
全217ページ中201ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング